Saturday, October 15, 2011

赤コーナー

あなたはだんだんきれいになる


をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きもが
生きて動いてさつさつと意欲する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修業によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時々内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。


高村光太郎『智恵子抄』より

Friday, October 14, 2011

アフリカより


アフリカのどこかの国で教員をしている知人が顔本で書いていたやつの引用です。
これ以上くわしく書くと誰だかもしかしたらバレてしまうかもしれないので書けません。
以下引用

少し長いですが、面白かったので。
 私の配属先の学校は寮生の高校で生徒の管理が厳しすぎる。
 しかし、生徒は学校から抜け出せたとしても、周りには何もなく、​30分も歩いていかないと町には辿りつかないし、悪事と言っても​、たばことビールとケンカくらいしかできない。しかも、町にはビ​ールと煙草を呑みながら、さぼっている否、見張っている勤勉な教​師が町に数件しかない飲み屋に駐在しているので、そうやすやすと​は買えないし、買えたとしてもすぐに見つかりおしりぺんぺんの刑​が関の山である。
 時折、酒を飲んでいるという通報により、生徒が生徒によって連行​されるという珍妙な場面に出くわし、後始末を押し付けられること​がある。今日も現場へ急行し、証拠品を押収するために、ケースの​中を見ると、何本ものビールが申し訳なさ気に衣類の間に挟まれて​いる。
 さて、この生徒。様々な障害を乗り越え、町から30分もかけて瓶​を鳴る音を出来るだけ小さくしながら、それらを寝室まで持ち帰り​、そして隠し、辺りが静まった頃を見計らって、特に二段ベッドの​上段にいる友人に見つからないように、こっそり飲み、「あぁうま​い」とか「あぁ生き返る」とか言うことすら許されず、「何飲まぬ​顔」でしかも友人に酔っ払っているとは思わせない絶妙なテンショ​ンが高さで酒を楽しんでいたことを考えると、アカデミー賞をあげ​たいくらいの気持ちになる。私なら気が狂い、ビールと間違えて尿​を飲んでしまいそうなものである。

引用以上
匿名

Saturday, October 8, 2011

「夜話」の読み方を知る(やわ)

村上 (略)逆説だけど、自分にセンスがない人は、自分にセンスがないという事実を認めるセンスがないということです。
 あともうひとつ僕が言いたいのは、非常に不思議なことで、僕もまだ自分のなかでよく説明できないんですけど、「自分がかけがえのある人間かどうか」という命題があるわけです。たとえば、皆さんが学校を出て三菱商事に入って、南米からエビの輸入をする仕事をするとします。それで非常に一生懸命にやるんだけども、じゃあ、かけがえがないかというと、かけがえはあるんですよね。もし病気で長期療養したら、別な人がそのエビの取引の位置について、一生懸命あなたの代わりにやるわけです。それで三菱商事が、たとえば皆さんが二年間病気になって困るかというと、困らないわけです。というのは別の人を連れてきて同じ仕事をやらせるわけだから。だから、あなたほどうまくやれないかもしれないけれど、三菱商事が困るほどのことはないですね。
 ということは、いくら一生懸命やってもかけがえはあるわけですよね。というのは、逆に言えば、会社はかけがえのない人に来られると困っちゃうわけです。誰かが急にいなくなって、それで三菱商事が潰れちゃうと大変だから。その対極にあるのが小説家なわけです。ところが小説家に、たとえば僕にかけがえがないかというと、かけがえはあるんです。というのは僕が今ここで死んじゃって、日本の文学界が明日から大混乱をきたすかというと、そんなことはないんです、なしでやっていくんですよ。だから全く逆の意味だけど、かけがえがないというわけではない。





質問者F 日本の作家の方で、日本語の大辞典を何冊も潰すほど日本語を生み出すのに苦労なさっている方がいるということを、何かで読んだことがあるんですけれども、今度は逆に日本語にする段階でご苦労な点は何なのか。
あと、私は翻訳の勉強を始めたばかりなんですけれども、日本語を磨けとよく言われまして、意図的にそのへんの努力をなさっていることとかがありましたら聞かせていただきたいんですけれども。
柴田 まずですね、その、日本語を磨きましょうという言い方をよく目にするんですけど、どうも何か違和感があるんですね、僕は。何でなのかなあ、所詮自分の使える日本語しか上手く文章にはのらないということを痛感するんです。
たとえば、文章を練る上で類義語辞典というのは必須なわけですね、よく使うわけです。それで、このAという言葉ではしっくりこないから何かないかなと思って辞書使いますよね。そうするとBという類義語があって、これは自分ではあまり使わない言葉だけど、おーいいじゃないといって使うでしょう。それで次の日に読み直してみると、やっぱりそこだけ浮いているということがものすごく多いんです。
だから結局、自分にしっくりくる言葉には限りがあって、それを活用するしかないなというふうに思うことが多いです。だからもちろん、自分に使える言葉を豊かにするために、いわゆる日本語を磨く、いい文章をたくさん読むというのは、原理的には大事だと思うんですけれども、そうやっていわば下心をもって、いわゆる美しい日本語を読むことを自分に強いても、そう上手く自分のなかには染み込まないんじゃないかと思うんです。というか、そう思いたい。
あとね、何で僕がそういう磨くとか鍛えるとかいう考え方がいやかというと、僕にとって翻訳は遊びなんですよ。
村上 ははは。
柴田 違います?
村上 いや、そうです。そのとおりです。
柴田 そうですよね。だから、仕事じゃないからそんな苦労はしたくないし(笑)、ええっと、いや、みなさん笑うけれどこれ真面目に言っているんですよ(笑)。あのう、ええっと、なんというんだろう、要するに、日本語筋力トレーニングみたいな感じでね、好きでもないのにこれは美しい文章なんだからって自分に無理強いするみたいなことはしたくないんですよ。
そもそも何が美しい文章かっていうことの基準なんてものはないし、べつに日本文学に限らず英米文学でも、美文の基準みたいな者が会って、それに則って書くのが正しい作法だみたいなことは現代の場合全くないわけですよね。だから、いわゆる美しい日本語といわれるものが仮に身につくとしても、それは単に、ある特定のトーンの日本語を身につけるだけのことだと思う。




村上春樹、柴田元幸『翻訳夜話』(文春新書)より、適宜改行
しかし傍点も打てないとは。

Friday, October 7, 2011

原稿書いていて心臓バクバクすることはないのか

医者が僕のレントゲン写真を出して
「心臓肥大です、要注意ですな」と云つた

僕は尋常一年のとき運動会で駈けつこに出た
すると「用意、どん・・・・・・」の直前
不意に胸がごつとんごつとんと鳴りだした
これが僕の記憶する最初の胸の高鳴りだ

最近は胸のときめきを感じることがなくなった
原稿書いてゐて胸がふと動悸を搏ちだすことなど更らにない
僕の感動の最後助だと思はれるのは
京竿で一尺山女魚を釣つたときのものである

僕の心臓は干涸びてしまつてゐる筈だ
心臓肥大とは誤診だと思ひたい



井伏鱒二「誤診」



Wednesday, October 5, 2011

引用からはじめる

われわれが自由にしていたもっとも刺激的な語は、それが発言されるにせよされないにせよ、あの「・・・のように」という語である。この語を通して、人間の想像力はその力量を示すののであり、精神のもっとも高い運命が成就されるのである。

アンドレ・ブルトン「上昇記号」より

Thursday, June 9, 2011

茄子の味噌炒めとビール

先日は、ひさしぶりに徹夜をしました。
内定が出た友人のお祝いで、黒澤清「キュア」を鑑賞し、安い(失礼)シャンパンを空けて、宅配ピザをとりました。それとコーヒーだけで、案外夜は明かせるものです。

その内定者が「時間を増やす手っ取り早い方法は徹夜だ」と改めて言うので、何か背後にある壮大な理論を感じてしまいました。

そして、今日は、なすの味噌炒めとビールを飲んでいます。ビールは、そのお祝いで残ったハートランドビール。茄子の炒め物をするときはフタをしめて水を出させることが大切、らしいです。

小学校の頃の親友であったコマキくんは茄子が嫌いでした。あの味においしさはないだろう、と。
僕は茄子がわりと好きだったし、今も好みます。ですが、コマキと友人であることを抜いても単独で茄子の不味さというものが想像できます。君の言う茄子の底知れぬ淡白さとかは苦手な人がいるよねーとかいう「言葉を理解する」レベルではありません。ぼくは食べながらも、その底知れぬ淡白さを捉え、嫌いもする。そういう意味で、なすの不味さというものが理解できる。少なくともわかった気でいる。
「まずさはわかる、しかしそこを乗り越えて、そここそが好きなのだ」という、反-反論と範囲の限定というかたちで、ぼくは茄子をより一層ただしく愛することができるのです。

これは食べ物の好き好みだけの話なのか、についてはまだわかりません。

Monday, June 6, 2011

アテンダンスポリシー2011

先月は7本しかブログを更新していないのはよくないよくないよくない。
よくないことは重要なことなので、3回書きました。

本居宣長の講義が地味に面白いためそのことを書こうと思いましたが、次回にします。

シラバスに「出席重視」とか書いておきながら初回で「まあ哲学の授業ですから出なくてもレポートこなせば構いません」「出席はボーナスポイントだけです。全部出た人に単位出さないわけにはいきませんので。出なくても結構」という撤回?を何回か目にするのだけれど、そういう風習というか文化みたいなものがあるのでしょうか。

「落とす」っていうのはなかなか面倒なんだよ、と親切な先生は言います。
そこから想像すると、「何と言おうと俺は出ない!」という過去の先輩の(有益かどうかは知らないが)頑張りと、落とすの面倒だしボーナスあげておくかという教員の慈悲との、せめぎ合いが現状を生んだのでしょうか。

それともそもそも何か「本質的に」出席を必要としないような伝統を正当化する理屈があるのか。
参考文献の引き方で流派の違いっていうのはわかるけれども、それを学部の講義における出席ポリシーにも適用するという話はきかない。それくらい学部の講義は担当の任意ってことなんだろうけど、その任意の偶然からなる集合なのかな。英国経験論みたい。