Thursday, November 3, 2011

今日とは関わりを特には持たないとして

 波子の眼は、宇品の宿舎にいた頃から烈しく痛み出したという。尚よく聞いてみると、神戸を出て宇品へ行く汽車の中で、眼が痛むという友達にハンカチを貸したという。
 私は、夜中であったが直ぐ親戚の眼医者に電話をかけた。そして明日にしますという波子を無理にその眼医者に連れて行ったが、私の想像通り、急性淋毒性結膜炎で、徹夜で二時間毎に薬を挿さねば失明するかも知れないという事であった。
 私は波子を私の部屋に連れて来て、言われた通りの手当をして夜を明かしたが、彼女の眼は、全く濃い膿汁の中に沈んでいた。
 私が徹夜で看病したのは、彼女が嘗て白泉の「青豆蝦仁」を掃除してくれたからなのか。それだけの理由からなのか。
 疲れてウトウトしている波子は、私が二時間毎にゆり起こして眼薬を挿すたびに、かまわないでほしいと言った。かまわないでいれば、君の眼は明日の朝までにつぶれてしまうと医者が言ったではないかと言うと、「恩を受けたくないのです」とつぶやいた。
 この言葉はひどく私を驚かせた。私に賤しい下心が無いとは言い切れないが、それよりも、今一眼を失うか助かるかの瀬戸ぎわで、男の親切が自分の苦労の種になるかも知れないという、その本能的な保身と、たとえ眼がつぶれても男とのトラブルから逃げたいという経験とに驚いたのである。


西東三鬼「神戸」より
『神戸・続神戸・俳愚伝』(出帆社)所収



「しゅっぱんしゃ」っていうギャグなのか。
贈り物に今さら後悔をするくらいにいい本だけれど、いい本だからこそ手元に置いておきたいとも思うのです。本棚を共有することを結婚とするならば、まあ現状いい線は行っているのではないか、だけれども弛まず努力しなければいけない、と思うと、僕も日銭を稼ぐ必要を感じます。いや、本棚は分けるべきか、預金口座と同じように。この本は良かれ悪かれ、呪いです。

Wednesday, November 2, 2011

教養の大切さを教養なしに語るには


 一方でそれはガマガエルをふみつぶす楽しみでもあり、人を差別して見下して踏みにじっていじめる楽しみでもあり、強姦魔や連続殺人鬼のよろこびでもある。ぼくは知らないけれど、自分の信念の命ずるままに、サリンを撒いてカーフィルどもを虫けらのように殺したり、小学生の頭を切り落としたりするのも、すごいおもしろさがあったんだろう。いずれかれらにはそれをきちんと語ってほしいなと思う。その記述はたぶん「我が子を失った親の悲しみ」なんていう紋切り型をはるかに上回るパワーを持つだろう。だってかれらがそのとき感じていた「おもしろさ」のおかげで何をしでかしたか考えてみるといい。ふつうの人がいくら金をつまれてもやらないようなことを、ボランティアでやらせてしまうだけのおもしろさというのは何なのか。きちんとそれを記述すれば、必ずそれは伝染して追随者を生むにちがいない。

「心ときめくミームたちを求めて」より



 蓮實重彦の文は、とてもつらい立場におかれていて、かれが言おうとしていることを普通のことばで言おうとすると、どうしても「人間、結果はどうあれ努力が大事です」とか「やはり結果を出さないとだめです」とか「出会いを大切にしましょう」とか、そういう鼻くそみたいなお説教になってしまう。それはウソではなくて、一面の真実を持っているんだけれど、どっかできいたお説教だと思われた瞬間に、そのことばはもう頭の芯には届かずにバイパスされてしまう。しかもこういうのには、一面の真実のほかに実はいろいろただし書きがついている。たとえば努力は大事だけど、世の中には無駄で無意味な努力もあって、その努力を輝かせるにはある種の結果出しがどうしても必要なんだ、とか。
 だから蓮實は、「例の」お説教だと思われないように、様子をうかがうような文章をつむいでいくんだ。そして予想外の方向からせめて、なんとかみんなの頭の芯にたどりつこうとする。同時に、お説教からはばっさり切り捨てられるいろんな注意書きやただし書きも温存しようとする。

「手っ取り早い結論は諸悪の根源である」より


以上、山形浩生『新教養主義宣言』(晶文社)所収

 前置きをしなくとも経済書で脱構築といえば冗長かつ何でもアリな文芸批評のことね〜、とネタとして使えるような、共通言語としての教養を求めるこの本自身が、教養を必要としているとまではいかなくともそれへの渇望が露となった文章で書かれているこういう見取り図だよ、わたしが問題にしているのは。

Monday, October 31, 2011

子供はかわいい


「志望理由は」
「子供が好きだからです」
「なぜ好きなの」
「かわいいからです」
「かわいくない子がクラスにいたらどうするの」
「好きじゃない子がクラスにいたらどうするの」

ここで詰んでしまうようでは駄目です。

「みんな、かわいいです」
「ほんとかな」
「ほんとです」
「みんな『かわいい』なら、『かわいい』の意味がないじゃないか」
「子供は、みな、かわいいんです」
「大人は、かわいくないのもある」
「そうです」
「動物はどう、人間以外の」
「かわいいものと、かわいくないものとあります」
「君にとっては、子供ならば、すべてかわいい」

「かわいい子供が好きなんじゃなくて、
かわいい子供が好きな自分が好きなんだろ?」
というような、意地悪はもう飽きました。
それでも、「かわいい」たる感覚だけを人に尽くす為の基準とするような
都合のいい弱いものしか愛せないような
そういう人
政治ではなく、わたしはむしろここで恐怖します。

Sunday, October 30, 2011

AOJ(アダルト・オリエンテッド・児童文学)ではなく


ともあれ、メルヒェンを児童文学に囲い込んだ近代は、さらに児童文学そのものを「おんなこども」のものとして囲いこみ、第二列に置いたのだった。そんな児童文学について、わたしに言えることを急いで言ってしまえば、いまやこの囲い込みがあやしいのだ。なぜなら、「おんな」も「こども」も、近代によって引かれた輪郭をかなぐり捨てて久しいからだ。だとしたら、児童文学はいまさらなにに向けて囲いこまれるのか。その対象が、近代というコンテクストでのみ成立していた自明さをとっくに失っているというのに。
おとなの文学のすべてを子供が享受できない以上、児童文学というジャンルはこれからもあるだろうし、おおいにあっていい。ただし、近代の壮大な意図の一貫として出発したというトラウマに、いつまでもこだわることはない。そんなものにいまだに足を引っ張られている(と思いこんでいる)側の責任と言っていい。なにしろ男も、「近代の主体」などというカミシモを脱いで久しいのだ(でしょ?)。見えない囲いこみの実効性を疑うときはとっくにきている。事実、近代が仕掛けた囲いこみをぶち破る気概のある作家による力ある作品は、すでにわたしたちのまわりにおびただしい。
でも、もっとどんどん出て来るといい。作戦としては、そのむかし、『ガリヴァー旅行記』のようなおとなの文学を子供が横取りしたように、こんどはおとなが横取りしたくなるような児童文学を産出することだ。昨今の子供の状況に向き合おうとするならば、たとえば児童文学で『蠅の王』を書くことこそが求められている現実から目をそらすことはできないはずだ。


池田香代子「あいまいな児童文学のわたし」より(青土社、ユリイカ1997年9月号)

ソの戦術


ソクラテス うん、できるとも、ゼウスに誓って、われわれには。もしもわれわれが分別をもってさえすればね。まず、一つの仕方–––これが最良の仕方なのだが–––は、次のように言うことだ。「神々については、われわれは何も知らない。神々そのものについても知らないし、また名前についても、いったい神々が自分たちを何と呼んでいるのか、知らないのだ」とね。というのは、神々ならば、真実の名前を呼ぶことは、明らかだからね。次に、二番目に正しい仕方は、ちょうど祈りの際のわれわれの慣しのように、することだ。つまり、どんな名前であろうと、何にちなんでの名前であろうと、とにかく神々のお気に召す名前を、われわれもまた呼ぶことである。それ以外の名前を、われわれは全然知らないのだと考えてね。実際これは立派な慣しだと、ぼくには思えるのだからね。そこで、君にその意志があるならばだが、われわれは次のように神々に対していわば予告した上で、考察を始めようではないか。すなわち、「神々については私たちは何も考察しようとしておりません。なぜなら、自分たちに考察しうる能力があるとは見なさないからです。むしろ私たちは人間について、彼らがいったいどのような意見に基づいて神々の名前を定めたのであるかを、考察しようとしているのです」とね。なぜなら、これならば神々のお怒りを招くこともないだろうからね。

プラトン「クラテュロス」(岩波書店『プラトン全集』第2巻所収。水地宗明訳)

Sunday, October 23, 2011

善良な銃から発射される


おれたちの話をきけ。おれたちにはわかっている
おまえはおれたちの的だ。だからおれたちは
おまえを壁のまえに立たせる。だが、おまえのためになるし、おまえはいいやつだから
おれたちはおまえを善良な壁のまえに経たせる、そしておまえを撃つ
善良な銃から発射される善良な銃弾で、そしておまえを埋める
善良なシャベルで、善良な地中に


ベルトルト・ブレヒト「善人の尋問」より

理解ある妻という前提


 社会主義のもとでの、若者に対するレーニンの助言、若者はなにをすべきかという問いに対する彼の答えは、「一にも二にも勉強」であった。この助言はたえず引用され、学校の壁にも掲げられた。ジョークはこれをふまえたものだった。
 マルクスとエンゲルスとレーニンが、奥さんと愛人どちらを持ちたいか、ときかれる。私的な問題に関しては保守的であったマルクスは、予想どおり「奥さん」と答える。それに対し、享楽家であったエンゲルスは、愛人を選ぶ。そしてレーニンは以外にも「両方」と答える。なぜか。厳格な革命家というイメージの下に退廃的な享楽家が隠れていたからか。そうではない。彼はこう説明する。「両方いれば、奥さんには愛人のところに行ってくるといえるし、愛人には妻のところに帰らねばといえるからね……」。「それで、あなた自身はなにをするのです?」「ぼくは人里離れたところに行って、一にも二にも勉強さ!」

スラヴォイ・ジジェク『暴力––––6つの斜めからの省察』(中山徹訳、青土社)