Sunday, November 6, 2011

蛙は翻訳されるのか

蛇の草ずれが遠くへ消えていつた
耳によつてた血がわくわくからだを流れた

(ピンと後脚でけとばしたい!)

ウヒウヒ笑ひながら浮き上ると
午の陽が花火のやうに眼をふさいだ

–––どうりや これから
土筆部落へ
ヨタ話にでもでかけようか




銀座街頭に売物になつてゐるトタン箱にうづくまるガマの眼玉は僕から中学小学の修身教科書の全部を消滅させる。大学的徳性は笑はれる。
蛙達の眼に映る人間の顔、その二つの肉体的力量の比較に立脚して魂の啞然は果たしてどつちにあるか。

蛾を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。この定義は悪魔だ。蛙をみて人間に不信任状を出したいぼくはその故にのみかへるを憎む。

殺戮者「万物の霊長」は君達をたたきころしむしろ道ばたの遊びごととし、そしてそれは自然だ。君達は君達の互助を讃へよ。高らかにうたへ。

人情的なあらゆるものを蔑視する宇宙大無口。

かへるの性欲は相手の腹に穴をあける
かへるの意地つ張りは意志を笑ふ
かへるの夢は厖大無辺
眼玉は忍従と意志の縮図だ

そしてゲリゲといふかえるは蛇に食はれて死んで行くとき人間の言葉に翻訳したら恐らく次のやうな言葉を仲間に送つた。
    お友達や仲間の諸君 ぼくが殺されるのを悲しんで逃げろといつて下すつたのをありがたう。ぼくを殺すのは誰でもないぼくの意地です。悲しくはない。悲しいことはなぜ殺しあひがあるかといふことです。それも仕方ないでせう。僕たちだつて色んなものをたべます。自然の暴威は当たりまへです。悲しいのはそれではない、なぜおんなじ兄弟たちなかまたちが殺しあふのだといふことです。
    霊長の人間も人間同士で殺しあふではありませんか。
    諸君 ぼくたちは幸福です。ぼくたちは誰彼の差別なく助け合ひ歌ひあひます。これ以上のことがあるでせうか。それを思ふとぼくはうれしい。ぼくは死んでゆきます。悲しくはありません。さやうなら。万歳して下さい。

そしてにんげん諸君 蛙とにんげんとマンモス、にんげんの声がマンモスの声より小さいだらうといつて、蛙のコーラスがにんげんのそれよりけちくさくしみつたれだと言ひ得るとでも言ふのか。

ぼくは蛙なんぞ愛してゐない!



草野心平「晴天」(『第百階級』所収)

こういう東京を僕にもくれよ

「どうも西洋人は美しいですね」といった。
 三四郎は別段の答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、
「お互いは憐れだなあ」といい出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応の所だが、––––––あなたは東京が始めてなら、まだ富士山も見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵えたものじゃない」といってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「亡びるね」といった。––––––熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲ぐられる。わるくすると国賊取扱いにされる。三四郎は頭の中のどこの隅にもこういう思想を入れる余裕はないような空気の裡で生長した。だからことによると自分の年齢の若いのに乗じて、他を愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとくにやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでも落ちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こういった。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中の方が広いでしょう」といった。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分が非常に卑怯であったと悟った。


夏目漱石『三四郎』より

Friday, November 4, 2011

ここ数日のこと


■一昨日のこと
新木場に行きました。
誘ってくださった先輩と結局会えなかったのですが、どうやらトイレの脇でゴミ袋と闘っているのを横目にしながら「まさかアレな訳ないよなあ、でも近くでまじまじと見るのもアレだしなあ」とスルーしていたのがおそらく先輩でした。
駐車場に叩き出されていたらしい先輩を「携帯電話が切れた」というもっともらしいアクシデントで救いに行けず、ぼくは、築地で海鮮丼を食べました。
芝浦から埋め立て地に入る「ぐるり」となっているところは、近未来って感じがして勢いづきました。なんかサイバーなのはコンピュータよりになりすぎて、ぼくはどちらかというと道路とかそういうのに興奮する性質なので、どうか才能あるエンジニア?クリーター?の卵のみなさんは破竹の勢いのITばかりでなく国土交通省あたりも進路の候補に入れてください。

■昨日のこと
特に何もせずに、手紙を書きました。おいしいものをたくさん食べました。塩風呂に長く入りました。ずっとお風呂&トイレで読んでいた『ガリヴァー旅行記』が残念なことに終わってしまったので、次は『カラマーゾフの兄弟』にしました。ベル・アンド・セバスチャンを聞きました。

■今日のこと
■ファッションとして装備する文学について
■映画館で眠ることについて
■トワイライトについて
■作者のナイーヴさ
今日はとてもよい天気だったので、陸を走る電車に乗りたいと思いました。
早稲田松竹にタルコフスキー「惑星ソラリス」を観に行きました。前日寝ていないので案の定途中で寝ました。
ぼくは、うとうとしながら、映画を観ました。ぼくは、自分が損をしたと思わないような理屈をこね始めました。教養課程の映画の授業、ある映画を一通り見せたあとに新入生に「何が見えたか」と尋ねる。すると哀れな新入生は「こうこうこういうドラマです」「こういう心情です」と筋書きや心情を教育国語の作法にのっとって答える。すると講師「そんなことをきいているんじゃない。『画面に何が映っていたのか』をきいているんだ」、つまり画面の中の構図や色彩についてきいたんだ、えええ筋書きじゃないの映画ってえええ、と衝撃を受けた、みたいな(すごく大雑把)話をききました。
そこから少しズレますが、ぼくは、長編小説について同じことを思いました。長編小説を「読み切る」っていうけれども、「具体的なエピソードとかってすぐ忘れちゃうんだよね」が結構本腰入れて夢中になって読んだ本でもあり得る(だってハリーポッターの諸エピソードとか人から急に話をふられても覚えてない)ことから、菊池寛が後生抱え続けた「筋」なるものは、文学談義の共通見解としても、もしかしたら信用できない。何も考えずにページを繰り文字を追うだけで「筋をわかっていない」ことと、行間まで読み込む勢いで6時から9時のコアタイムを利用して和室で正座して読んで「とてもよく読んだ」こと。この二つは決して比較ができない、ということです。読んだつもりの読み落としという存在が無限に認められる以上。
眼の活動の復旧とフィルムの古さに起因するブレとが重なったり、うつらうつらも佳境をむかえた後半は、止め絵偏差値の高い断片を「文脈もわからず」見続けることなどはなかなかに映画館らしい体験だったのではないか、というあたりで落ちをつけることができました。

そのあと、つづく「鏡」は諦めて、講読の授業を受けに戻りました。戻った次の次くらいで訳の当番が回ってきました。ついているのだと思います。

そのあと、恵比寿の写真美術館に行きました。トワイライトなんちゃらとかいうので、木曜日金曜日の5時半以降に入るとスタンプがもらえて、6つたまると招待券なのです。「写真新世紀展」などは入場無料なのでつまりは無限ループが可能なのです。しかもうちからバイクで10分もかからないし駐輪場は最初のどれだけかは無料です。というわけで来週も行こう。
見たのは、時間の関係もあって無料の「写真新世紀展」だけです。

ちなみに肝心の内容ですが、メモ程度にとどめておきます。
「印象とかイメージとか、お前ら何百年前から進歩してねーな」
作者がそれぞれ書いている制作意図がナイーヴすぎるのと感じるのはなぜでしょう。きみの頭の中のイメージとか見せられても、心底どうでもいい。「イメージを写真という実際に写した時点で『改変』されること」の意識が希薄なのか、もしくはそんなものは写真界では常識でもはやクリシェなのか。
クリシェだとしても、その意識をふまえた上でもあえてイメージとやらを絞り出しているようにしか見えないというところに鑑賞者を追い込む負け犬的方法の工夫や、改変そのものにイメージを重ねあわせるような変態を写真に教え込むことなどの意識がないので「またどこかできいたことのあるような」ばかりでした。評論家と作家を二分割するようなことを言う人がよくいますが、それは表象言語の違いとしては認めるにしても、考え
具体的なセンテンスを引かないと卑怯なんだが、それでも、お気楽だなー闘ってないなーと思いました。

椹木セレクションはなかなか面白かったです。HIROMIXの「終わったコンテンツ」感が漂っていましたが、しかし昨今の女子カメラは彼女が先鞭を打ちましたことには変わりないのでもはや写真史上の人物ですね。ホルガとかはともかく、女子カメラはエントリー用デジタル一眼がメイン?になりつつあるのは、一眼レフの道具としての使い勝手の良さなのかマーケティングなのか。
グッドマン『世界制作の方法』、せっかく買い直したのだから読もうと思いました。(しかし、買い直した奴は読まないというジンクスがある、バタイユ『エロティシズム』とか)
畠山直哉を見に、もう一度は行くはずだから、また併せて書こうかと思います。
黒沢清についても。あと上映会も。

■明日のこと
「平服で構いません」を罠だと感じ取ってしまうような疑心暗鬼の関係を打破したいと思いました。

Thursday, November 3, 2011

今日とは関わりを特には持たないとして

 波子の眼は、宇品の宿舎にいた頃から烈しく痛み出したという。尚よく聞いてみると、神戸を出て宇品へ行く汽車の中で、眼が痛むという友達にハンカチを貸したという。
 私は、夜中であったが直ぐ親戚の眼医者に電話をかけた。そして明日にしますという波子を無理にその眼医者に連れて行ったが、私の想像通り、急性淋毒性結膜炎で、徹夜で二時間毎に薬を挿さねば失明するかも知れないという事であった。
 私は波子を私の部屋に連れて来て、言われた通りの手当をして夜を明かしたが、彼女の眼は、全く濃い膿汁の中に沈んでいた。
 私が徹夜で看病したのは、彼女が嘗て白泉の「青豆蝦仁」を掃除してくれたからなのか。それだけの理由からなのか。
 疲れてウトウトしている波子は、私が二時間毎にゆり起こして眼薬を挿すたびに、かまわないでほしいと言った。かまわないでいれば、君の眼は明日の朝までにつぶれてしまうと医者が言ったではないかと言うと、「恩を受けたくないのです」とつぶやいた。
 この言葉はひどく私を驚かせた。私に賤しい下心が無いとは言い切れないが、それよりも、今一眼を失うか助かるかの瀬戸ぎわで、男の親切が自分の苦労の種になるかも知れないという、その本能的な保身と、たとえ眼がつぶれても男とのトラブルから逃げたいという経験とに驚いたのである。


西東三鬼「神戸」より
『神戸・続神戸・俳愚伝』(出帆社)所収



「しゅっぱんしゃ」っていうギャグなのか。
贈り物に今さら後悔をするくらいにいい本だけれど、いい本だからこそ手元に置いておきたいとも思うのです。本棚を共有することを結婚とするならば、まあ現状いい線は行っているのではないか、だけれども弛まず努力しなければいけない、と思うと、僕も日銭を稼ぐ必要を感じます。いや、本棚は分けるべきか、預金口座と同じように。この本は良かれ悪かれ、呪いです。

Wednesday, November 2, 2011

教養の大切さを教養なしに語るには


 一方でそれはガマガエルをふみつぶす楽しみでもあり、人を差別して見下して踏みにじっていじめる楽しみでもあり、強姦魔や連続殺人鬼のよろこびでもある。ぼくは知らないけれど、自分の信念の命ずるままに、サリンを撒いてカーフィルどもを虫けらのように殺したり、小学生の頭を切り落としたりするのも、すごいおもしろさがあったんだろう。いずれかれらにはそれをきちんと語ってほしいなと思う。その記述はたぶん「我が子を失った親の悲しみ」なんていう紋切り型をはるかに上回るパワーを持つだろう。だってかれらがそのとき感じていた「おもしろさ」のおかげで何をしでかしたか考えてみるといい。ふつうの人がいくら金をつまれてもやらないようなことを、ボランティアでやらせてしまうだけのおもしろさというのは何なのか。きちんとそれを記述すれば、必ずそれは伝染して追随者を生むにちがいない。

「心ときめくミームたちを求めて」より



 蓮實重彦の文は、とてもつらい立場におかれていて、かれが言おうとしていることを普通のことばで言おうとすると、どうしても「人間、結果はどうあれ努力が大事です」とか「やはり結果を出さないとだめです」とか「出会いを大切にしましょう」とか、そういう鼻くそみたいなお説教になってしまう。それはウソではなくて、一面の真実を持っているんだけれど、どっかできいたお説教だと思われた瞬間に、そのことばはもう頭の芯には届かずにバイパスされてしまう。しかもこういうのには、一面の真実のほかに実はいろいろただし書きがついている。たとえば努力は大事だけど、世の中には無駄で無意味な努力もあって、その努力を輝かせるにはある種の結果出しがどうしても必要なんだ、とか。
 だから蓮實は、「例の」お説教だと思われないように、様子をうかがうような文章をつむいでいくんだ。そして予想外の方向からせめて、なんとかみんなの頭の芯にたどりつこうとする。同時に、お説教からはばっさり切り捨てられるいろんな注意書きやただし書きも温存しようとする。

「手っ取り早い結論は諸悪の根源である」より


以上、山形浩生『新教養主義宣言』(晶文社)所収

 前置きをしなくとも経済書で脱構築といえば冗長かつ何でもアリな文芸批評のことね〜、とネタとして使えるような、共通言語としての教養を求めるこの本自身が、教養を必要としているとまではいかなくともそれへの渇望が露となった文章で書かれているこういう見取り図だよ、わたしが問題にしているのは。

Monday, October 31, 2011

子供はかわいい


「志望理由は」
「子供が好きだからです」
「なぜ好きなの」
「かわいいからです」
「かわいくない子がクラスにいたらどうするの」
「好きじゃない子がクラスにいたらどうするの」

ここで詰んでしまうようでは駄目です。

「みんな、かわいいです」
「ほんとかな」
「ほんとです」
「みんな『かわいい』なら、『かわいい』の意味がないじゃないか」
「子供は、みな、かわいいんです」
「大人は、かわいくないのもある」
「そうです」
「動物はどう、人間以外の」
「かわいいものと、かわいくないものとあります」
「君にとっては、子供ならば、すべてかわいい」

「かわいい子供が好きなんじゃなくて、
かわいい子供が好きな自分が好きなんだろ?」
というような、意地悪はもう飽きました。
それでも、「かわいい」たる感覚だけを人に尽くす為の基準とするような
都合のいい弱いものしか愛せないような
そういう人
政治ではなく、わたしはむしろここで恐怖します。

Sunday, October 30, 2011

AOJ(アダルト・オリエンテッド・児童文学)ではなく


ともあれ、メルヒェンを児童文学に囲い込んだ近代は、さらに児童文学そのものを「おんなこども」のものとして囲いこみ、第二列に置いたのだった。そんな児童文学について、わたしに言えることを急いで言ってしまえば、いまやこの囲い込みがあやしいのだ。なぜなら、「おんな」も「こども」も、近代によって引かれた輪郭をかなぐり捨てて久しいからだ。だとしたら、児童文学はいまさらなにに向けて囲いこまれるのか。その対象が、近代というコンテクストでのみ成立していた自明さをとっくに失っているというのに。
おとなの文学のすべてを子供が享受できない以上、児童文学というジャンルはこれからもあるだろうし、おおいにあっていい。ただし、近代の壮大な意図の一貫として出発したというトラウマに、いつまでもこだわることはない。そんなものにいまだに足を引っ張られている(と思いこんでいる)側の責任と言っていい。なにしろ男も、「近代の主体」などというカミシモを脱いで久しいのだ(でしょ?)。見えない囲いこみの実効性を疑うときはとっくにきている。事実、近代が仕掛けた囲いこみをぶち破る気概のある作家による力ある作品は、すでにわたしたちのまわりにおびただしい。
でも、もっとどんどん出て来るといい。作戦としては、そのむかし、『ガリヴァー旅行記』のようなおとなの文学を子供が横取りしたように、こんどはおとなが横取りしたくなるような児童文学を産出することだ。昨今の子供の状況に向き合おうとするならば、たとえば児童文学で『蠅の王』を書くことこそが求められている現実から目をそらすことはできないはずだ。


池田香代子「あいまいな児童文学のわたし」より(青土社、ユリイカ1997年9月号)