結果として、理論は恐ろしげなものになる。今日の理論の特徴の中で人をいちばん愕然とさせるのは、理論にはきりがないということである。それはおよそマスターできる代物ではないし、「理論をしる」ために学べる特定のテクスト群があるわけでもない。それは、変化を求める若者たちが、年長者のしがみつく指導的概念を批判して、新しい思想家たちの理論を応援し、古い顧みられなかった思想家の著作を再発見するのにあわせてどんどんふくらんでゆく、限りのない著述のコーパスである。そのために理論は恐ろしげなものとなり、たえず自分を目立たせるための手段にもなる。「えっ?ラカンを読んでいないの!語る主体の鏡像的な構成を云々しないで、抒情詩について語るの?」とか、「フーコーの説明したセクシュアリティの援用とか、女の身体のヒステリー化とか、ガヤトリ・スピヴァックが宗主国的主体の構築におけるコロニアリズムの役割について論じているものとかを使わないで、ヴィクトリア朝の小説について書けるの?」とか。時には理論がなじみのない分野の難解な本を読むことを強制し、ひとつの課題が終わったかと思うと、ひと休みどころか、さらに難解な仕事を押しつけてくる悪魔の宣告となることもある(「スピヴァック?へえ、でもベニタ・パリーのスピヴァック批判と、スピヴァックからの返答を読んだ?」)。
ジョナサン・カラー『文学理論』(岩波書店、荒木映子・富山太佳夫訳)