Sunday, January 20, 2013

評論家、料理人説(ゾラ)

 多少軽率かもしれないが、ある対比をお許し願いたい。サロンというものが、我々に毎年供される、とてつもなく大きな美術のシチューだと想像していただきたい。画家、彫刻家はそれぞれ肉を送る。ところで、我々のお腹は敏感なので、味と様子がかくも多様なこれらの食糧を調理するためには、料理人のチーム全員を任命するのが安全だと考えた。我々は消化不良を恐れた。それで公衆衛生の番人に向かってこう言った。「とてもおいしい料理の材料がここにあります。胡椒は控えめにしてください。体をほてらせますから。ワインには水を加えてください。フランスは正気を失うことのできない大国ですから」。
 そのときから、料理人が重要な役割を果たすように私には思われる。なぜなら、彼らは我々の感嘆に味付けをし、我々の意見の下ごしらえをするのだから。我々には何よりもまず、この愛想のよい男たちに関心を抱く権利がある。彼らは不味い食べものを貪り食う人々のように、我々が満腹になるまで食べぬよう気をつけてくれる。「ビーフステーキ」を食べる時、肉牛の心配をするだろうか。レアの焼き加減を間違えたビーフステーキをあなたに供したコック見習いに感謝しようか、それとも呪ってやろうかと、そのどちらしか考えないだろう。

エミール・ゾラ「わがサロン:審査委員会(1866年4月27日)」
『ゾラ・セレクション第9巻:美術論集』所収、藤原書店、2010年

Sunday, May 27, 2012

羅生門暴行七人の侍荒野の七人

したがって、わたしは、『羅生門』という映画を焼きなおして、『暴行』という映画をつくったリット監督の頭のよさに感心すると同時に、好んでそんな焼きなおし映画を日本へ輸入した連中の頭のわるさをにがにがしくおもいました。なるほど、四、五年前、同じ黒沢明の監督した『七人の侍』という映画の模造品である『荒野の七人』という映画をつくったジョン・スタージェス監督の例がないこともありません。正直なところ、あのときには、こんどのばあいとは反対に、わたしは、スタージェスの頭のわるさと、その監督のつくったなんの変てつもない西部劇映画を日本に輸入した連中の頭のよさに感心しました。アメリカ製の映画のなかで理想的な商品だといえるようなものは西部劇だけであります。『荒野の七人』といったような典型的な西部劇映画をつくるために、なんでわざわざ高いゼニをだして、『七人の侍』という映画の再映画化権を買う必要がありましょう?それは良心的だといえばいえるのかもしれませんが、ゼニをドブにすてるようなものではありませんか。むしろ、『七人の侍』という映画のほうが、西部劇映画の模造品であって、パテント料をだすとすれば、こちらからだすのが当然のような気がします。泥棒に追い銭とは、スタージェス監督のようなおめでたい行きかたをさすのでしょう。これに反して、『荒野の七人』という映画を日本に輸入した連中は、追い銭をいただいた上に、アメリカ製の理想的な商品を獲得したわけであって、まさに抜け目のないバイヤーであるといわなければなりません。


花田清輝「日本製ということ」(岩波文庫『花田清輝評論集』所収)

Thursday, May 17, 2012

人足ブルース


七月二十九日

泥にまみれた土方でも
いつか咲く春信じてる
あゝゝ徒花 涙花
仇情けはいらないが
飲める酒なら飲んどくぜ
あゝゝ人足
人足ブルース

一日二日はめじゃないが
三日雨なら鳴入る
あゝ徒花 涙花
仇情けはいらないが
据える飯なら喰っとくぜ
あゝゝ人足
人足ブルース

俺らしがない沖仲士
誰が悪いじゃないけれど
あゝ徒花 涙花
仇情けはいらないが
くれる銭なら取っとくぜ
あゝゝ人足
人足ブルース

永山則夫『無知の涙 増補新版』(河出文庫、1990)ノート1より

Saturday, December 3, 2011

物識り合戦

 結果として、理論は恐ろしげなものになる。今日の理論の特徴の中で人をいちばん愕然とさせるのは、理論にはきりがないということである。それはおよそマスターできる代物ではないし、「理論をしる」ために学べる特定のテクスト群があるわけでもない。それは、変化を求める若者たちが、年長者のしがみつく指導的概念を批判して、新しい思想家たちの理論を応援し、古い顧みられなかった思想家の著作を再発見するのにあわせてどんどんふくらんでゆく、限りのない著述のコーパスである。そのために理論は恐ろしげなものとなり、たえず自分を目立たせるための手段にもなる。「えっ?ラカンを読んでいないの!語る主体の鏡像的な構成を云々しないで、抒情詩について語るの?」とか、「フーコーの説明したセクシュアリティの援用とか、女の身体のヒステリー化とか、ガヤトリ・スピヴァックが宗主国的主体の構築におけるコロニアリズムの役割について論じているものとかを使わないで、ヴィクトリア朝の小説について書けるの?」とか。時には理論がなじみのない分野の難解な本を読むことを強制し、ひとつの課題が終わったかと思うと、ひと休みどころか、さらに難解な仕事を押しつけてくる悪魔の宣告となることもある(「スピヴァック?へえ、でもベニタ・パリーのスピヴァック批判と、スピヴァックからの返答を読んだ?」)。

ジョナサン・カラー『文学理論』(岩波書店、荒木映子・富山太佳夫訳)

Wednesday, November 30, 2011

カミングアウトを巡るフリーライティング

カミングアウトに関するフリー・ライティング
クイア理論講座を終えて(11月30日)


カミングアウトとはつまり、うしなわれた自己決定権をマジョリティから奪い返すこと、戦略のことである。それは何を置いても、戦略であることを忘れてはいけない。現象ではなく。同位におくことを目指し、通常規範が通常規範たる正道でもって、あるいは完全ではないにしても比較問題として、回復を志向するのではなく、不可視=存在しないというバークリ的形而上学から演繹された「主張しないことは死を意味する」というテーゼに駆り立てられ、遮二無二差異を主張し、社会の根本的改革を要求する。

クローゼットとは、ハルプリンの定義にならうと、「自分が何者であるのか」を知り、決定する力が常に自分以外の誰かに占有されている状態をさす。彼らをクローゼットに押し込める社会的強制の恩恵は、とどのつまり、「ストレートの、日々生活する上で、そのようなものたちの存在を認識〜思いを煩わせることもない平穏」という形で享受される。

秘密とは、すなわち性。近代西洋における、知識、真実、個人のアイデンティティといったものは、性によって定義された。秘密とはすなわち性。19世紀以降の西洋でセクシュアリティは権力によって抑圧されているのか、と問うたミシェル・フーコーは、むしろ西洋において性は権力によって再生産されてきた、という構図を見いだす。権力による分類、配置、そして管理。ここで、はじめて、性的現象の客体的観察なる営みを必要とする。
(飛躍として)単なる行為ではなく、そのような行為の背景にある欲望、そのような欲望を持つような人間、その仮想的集合としての種族。ここに、種族としての同性愛者が有史はじめて登場した。

秘密と開示:知をつくるのは誰か?コントロールするのは誰か?秘密とは性的秘密のことであり、知識とは性的知識のことである。個人を知ることは、その人の性的な秘密を知ることである。知ることは殆ど「知っていると言ってもよい」と自分に認める見なしなのだとすると…

クローゼット、矛盾した場としての。中にいることも外に出ることもできない、あり得ないほどに不可能な場としての、クローゼット。「情報の開示が禁止されると同時に要請される」支離滅裂な論理を押し付けられる。カミングアウトは遅すぎるか早すぎるかのどちらかでしかない。つまり、「そんなこと聞きたくなかった」か「なんでもっと早く言ってくれなかったの」か、ということだ。同性愛者であることそれ自体の政治および倫理的判断ではなしに、情報の開示にまつわる政治を、ここでは読み込むのが有益だろう。

民族アイデンティティとの比較から、性的アイデンティティのカミングアウトにまつわる困難をあぶり出す。
(1)開示したアイデンティティが疑われる。「一時の気の迷いだからカウンセリングを受けろ」などと返す事は不自然ではない。実は日本人じゃない、に対してDNA鑑定について問う人の有無は。
(2)ガラスのクローゼット、「すでにバレているが見えていない事にする」

カミングアウトとは、強制的異性愛という制度化された権力をともなう無知を、無知としてあきらかにすること。見えないものは存在しないもの、という理論を否定するのではなく、その理論に則って、存在を獲得すること。

カミングアウトの文脈から外れた使用、カミングアウトの濫用、単なる、「カム」「アウト」として、「出て」「来る」として扱うこと。
鼻が気に入らないだとか唄が苦手だとかいったコンプレックスの「告白」とは、区別されるべきか否か。その優越性を担保しているものは何か。


非常に言い訳がましいのが嫌ですが、フリーライティングです。講義録というかメモというか。

Sunday, November 13, 2011

麻美ゆまとRioと上野千鶴子とチェブラーシカとアニメイトと現代の想像力

女は生涯にいくつの女性性器を見るか?

上野千鶴子『女遊び』(学陽書房)より


Rioと麻美ゆまがお互いの女性性器を見せ合って「こういうの始めてだねー」とかいっている動画がmegapornあたりであったと記憶していてさっき探して見たが落ちてました。残念。楽しみにしていた人ごめんなさい。


上野千鶴子『女遊び』(学陽書房)をパラパラ眺めていたら、チェブラーシカの栞が挟まっている、と気づきました。かと思えば、それは、実は、アニメイト渋谷店(シアターNの下にあるのがそれだったはず)のレシートの裏でした。
下衆なことと知りつつも、内容を熟読してしまう。そしてここにも書いたりしてしまうのです。

どうやら、冬のAVまつり2011というキャンペーンが実施中で、「期間中、AV商品・ゲームソフト・CD-ROMをご予約・ご購入1000円ごとにフェアポイントレシートを1ポイント分差し上げます!」とのこと。割引ではなく「景品」なのが、ニーズの多様化/個別化が進むとされ、さらにその細分化の極北と目されるであろうオタク・カルチャーのその象徴的ショップにおいて、なんらかの収束が起きているのか?と、仮説を再検討する必要に迫られます。フェアポイントはちなみに8P!


エビヅカさんという先輩がいつかおっしゃっていた「図書館で手に取った本に手紙挟まってたら」妄想の威力高くて困っちゃうという文学少年少女たちは少なくないと想像するのだけれど、このレシートから始まる恋、あるかな。というわけで、上述『女遊び』は返しちゃってレシートだけ手元にあるので、再会する可能性、あるかな。同じ本を借り直す可能性より(本の内容もあって)、名前も性別も知らない僕の恋人は、他の系列本を借りる可能性のほうが高いので、みなさんの知恵を是非お借りしたい。何に挟めばいいでしょう?


チェブラーシカ&くまのがっこうと、上野千鶴子と、アニメイト渋谷店と、冬のAVまつり2011と、それから8000円越えのAV消費と、麻美ゆまと、Rioと、それを結ぶ線上には、一体、誰の書いた、どんな本があるというのでしょう。そういう想像力の現代です。

Tuesday, November 8, 2011

「惜しみなく愛は奪う」スターたち

 ご承知のように、最近、身を売ってスターになれるものならなってみたいわ、と口ばしって物議をかもしたひとがあったが、たいした自信だとわたしはおもった。さらにまた、そういう発言にたいして、身を売るよりも芸を売れ、といったようなお座なりの忠告を試みるひともあらわれたが、なんという俗物だろう、とわたしはせせら笑った。
 アルチストとは–––したがってまた映画スターとは、自分自身に、売れるかもしれないところの肉体を、売れるかもしれないところの芸も、きれいさっぱりもちあわせのないということを、骨身に徹して自覚している人間のことをさすのである。
 一言にしていえば、かれらは、かれら自身が完全なデクノボーだ、ということをちゃんと知っているのだ。身を売ったり、芸を売ったりしてスターの地位を買うとすれば、売り手のと書いてとのあいだには、立派に、「ギヴ・エンド・テーク」の関係が成立する。しかし、スターというのは、法則のためにではなく、例外のためにつくられた人間なのだ。したがってかれらはなんにも売らないで–––売りたくても売るものがないのだから、自然そういうことになるが、もっぱら、「テーク・エンド・テーク」の道を突進する。その心意気がかれらをスターにするのである。(中略)
 とにかく、映画スターに美男美女がなれるという伝説ほど、信じがたいものはない。かれらの容貌や風采は、客観的にみればいたって平凡なものだ。芸についていうならば、かえってたたきあげた芸の持ち主は、バイプレイヤーのほうに多いだろう。にもかかわらず、わたしなんかでも、映画スターに似ているといわれるとまんざらでもないような気がするのは、いったい、どういうわけだろう?
 (中略)
 つまり、映画スターとしての地位に、ながいあいだとどまっているような人物は、くりかえしていうが、かれら自身がロボットにすぎないということを、ハッキリと意識しているような連中だけだ。これは、よほど映画というものを愛していなければできることではない。したがって、「テーク・エンド・テーク」というかれらのモットーは、有島武郎にならって、本当は、「惜しみなく愛は奪う」と訳すべきかもしれない。



花田清輝「スタア意識について」より(岩波文庫『花田清輝評論集』所収)