ご承知のように、最近、身を売ってスターになれるものならなってみたいわ、と口ばしって物議をかもしたひとがあったが、たいした自信だとわたしはおもった。さらにまた、そういう発言にたいして、身を売るよりも芸を売れ、といったようなお座なりの忠告を試みるひともあらわれたが、なんという俗物だろう、とわたしはせせら笑った。
アルチストとは–––したがってまた映画スターとは、自分自身に、売れるかもしれないところの肉体を、売れるかもしれないところの芸も、きれいさっぱりもちあわせのないということを、骨身に徹して自覚している人間のことをさすのである。
一言にしていえば、かれらは、かれら自身が完全なデクノボーだ、ということをちゃんと知っているのだ。身を売ったり、芸を売ったりしてスターの地位を買うとすれば、売り手のと書いてとのあいだには、立派に、「ギヴ・エンド・テーク」の関係が成立する。しかし、スターというのは、法則のためにではなく、例外のためにつくられた人間なのだ。したがってかれらはなんにも売らないで–––売りたくても売るものがないのだから、自然そういうことになるが、もっぱら、「テーク・エンド・テーク」の道を突進する。その心意気がかれらをスターにするのである。(中略)
とにかく、映画スターに美男美女がなれるという伝説ほど、信じがたいものはない。かれらの容貌や風采は、客観的にみればいたって平凡なものだ。芸についていうならば、かえってたたきあげた芸の持ち主は、バイプレイヤーのほうに多いだろう。にもかかわらず、わたしなんかでも、映画スターに似ているといわれるとまんざらでもないような気がするのは、いったい、どういうわけだろう?
(中略)
つまり、映画スターとしての地位に、ながいあいだとどまっているような人物は、くりかえしていうが、かれら自身がロボットにすぎないということを、ハッキリと意識しているような連中だけだ。これは、よほど映画というものを愛していなければできることではない。したがって、「テーク・エンド・テーク」というかれらのモットーは、有島武郎にならって、本当は、「惜しみなく愛は奪う」と訳すべきかもしれない。
花田清輝「スタア意識について」より(岩波文庫『花田清輝評論集』所収)
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