Friday, April 29, 2011

まいけるぽらんに-る【動】頭では解っているんだが口にはできない状態になること

 『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい?』といふ問に対しては何人もたやすくその心理を説明することはできない。
 思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
 どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。

 私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。
 あの病気にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コツプに盛つた一杯の水が絶息するほど恐ろしいといふやうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。
 『どういふわけで水が恐ろしい?』『どういふ工合に水が恐ろしい?』これらの心理は、我々にとつては只々不思議千万のものといふの外はない。けれどもあの患者にとつてはそれが何よりも真実な事実なのである。そして此の場合に若しその患者自身が……何等かの必要に迫られて……この苦しい実感を傍人に向つて説明しようと試みるならば(それはずゐぶん有りさうに思はれることだ。もし傍人がこの病気について特殊の智識をもたなかつた場合には彼に対してどんな惨酷な悪戯が行はれないとも限らない。こんな場合を考へると私は戦慄せずには居られない。)患者自身はどんな手段をとるべきであらう。恐らくはどのやうな言葉の説明を以てしても、この奇異な感情を表現することはできないであらう。
 けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。


萩原朔太郎『月に吠える』序(岩波文庫)


■■感想
□マイケル・ポランニー
□ろごす
□「詩人としての才能」
□thought
□共有
□論理としての感情

■■生活
□前日就寝:3時ごろ
□起床:12時ごろ
□昼食:ざるうどん
□夕食:コーン抜きコーンシチュー(むらさきいも、たまねぎ、鶏胸肉、にんじん)
紫イモが入っているのでフルーチェみたいな不思議した色のシチューです。味はコンソメに近いクリームシチューで名実ともにコーンを失いました。不思議な色をめざして料理するのって面白そうです。

Monday, April 25, 2011

旅っていいのか

町でいちばんの

 旅行に出ると、行った先に居ついてしまいたくなる。以前はしばらく居ついてしまうこともあったが、今は係累がいるので無理だ。つまらないと思っていたが、今住んでいるのも旅先で居ついた町なのだと想像すればいいということに考え至ってから、愉快になった。
 今日はバスで二十分ほどの海に行ってきた。『町でいちばんの美女』を読みながらラジオを聞いている青年がいるので、眺め、ビールを一本飲む。帰りがけに海辺のとうふ屋でとうふを二丁買う。バスで、少しうとうとする。部屋に戻ってから持ち金の残りを計算する。この町も長くなった、次はどこに行こうかと考えながら、朝干したシャツをたたみ、もう一本ビールを飲む。やがて日が暮れる。



川上弘美「町でいちばんの」(新潮文庫『なんとなくな日々』所収)


 わたしは人の謙遜が好きなので川上弘美はわりと好きです。でもこの文章はこの人にしてはそんなに上手いわけじゃないけど昨日と関連するかなと思って目に留まったので引きました。じっくり検討しはじめるとキリがないのです。うお、わたしいま楽屋ネタしてるな、これは最近読み直した江口「ストップ!ひばりくん」の影響なのか。

 上手い謙遜っていうのは、「いえいえいえいえいえいえ私など無能なただのしがない雑文売りでして」と頭を低くする技術のよしあしではなくて、あ、川上さん、「カイジ」はマメにチェックしてるのね、微笑ましいな、という隙間をつくような具体性を宿らせる技術のことです。

Saturday, April 23, 2011

旅っていいよね

 私は旅行が好きである。全く違う文化や風土に、自分の価値観がゆさぶられるのは、とても刺激的だと思う。特に目的は作らずに、気分次第で進む先を変える。偶然に立ち寄る町の角っこでボンヤリとその土地の生活を眺めるだけでいいのだ。予定表と荷物ぎっちりの名所巡りなんて、無意味な疲労と記念写真が残るだけだ。
 かく言う私は旅以上に家が好きである。故にあまり外に出ないし、旅もしない。


冨樫義博『レベルE』第2巻作者まえがきより

これはやはりあの正方形に近いフォーマットで読むのが、そしてカバーに印刷されているのがいいのかもしれません。



■■生活
起床:10時
昼食:つくねおにぎり、ホイップデニッシュ、グレープフルーツジュース(セブンイレブン)
夕食:ラーメン(600円)、大ライス2杯(サービス)、人工着色料つきキュウリのつけもの(サービス)@日吉武蔵屋

Friday, April 22, 2011

真は真でしかない、ユニークかつ定義不可能であるとはフレーゲの考えだが

 ニーチェは、諸価値の転倒=転換を実行するためには、神を殺すだけでは充分でないということを、われわれに教えてくれた最初の人である。ニーチェの作品のなかで神の死を伝えるヴァリアントは多数にのぼり、少なくとも十四、五の異文があるけれども、それらはすべてきわめて美しいものである。ところがまさしくそれらの美しい断章のうちのあるものによれば、神の殺害者は「人間たちのなかでも最も醜い男」なのである。ニーチェの言わんとすることは、人間がある外的な権威を必要としなくなって、これまで受動的に禁じられていたものを自分自身で禁止し、自発的に警察力と重荷を背負うとき、つまりもはや外から来るとは思えない禁圧の力や重荷を自ら引き受けるとき、人間はさらにいっそう醜くなったということである。こうして哲学の歴史は、ソクラテス学派からヘーゲル主義者に至るまで、人間の長い服従の歴史であり、その服従を正当化するために人間が自分に与える数々の理由の歴史なのである。こういう退化の運動はなにも哲学のみに関わるのではなく、歴史の最も全般的な生成を、また最も根本的なカテゴリーを侵し、悪影響を及ぼしてきている。それは歴史における一つの事実というのではなくて、歴史の原理そのものであり、われわれの思想や生を、腐敗の症候として決定したさまざまな事件のほとんど大部分は、その原理に由来するのである。従って未来の哲学としての真の哲学は、永遠の哲学ではないのと同様に歴史的な哲学でもない。それは反時代的、つねに反時代的でなければならない。


ジル・ドゥルーズ/湯浅博雄訳『ニーチェ』(ちくま学芸文庫)


真の哲学は変わりゆくものなのだとしたら、「常に変わりゆく」「常に反時代的」という点では永遠になってしまいますよね、っていう揚げ足取りだ。クラス分けについてもう少し考えたいです。


■■生活
就寝:4時ごろ
起床:9時ごろ
朝食兼昼食:リーフレタスとベーコンのサンドイッチ
夕食:牛丼大盛り(350円)@すき屋
就寝予定:1時ごろ
起床予定:9時ごろ(11時に店開けないといけない)

Thursday, April 21, 2011

DZ

今日はプチ有名人のドゥルーズ講義に出席しました。ドゥルーズはDzと略すのが通です(たぶん)。

非常に話が上手い人だったが、話が上手な人には、構えてしまいます。
「上手い話には裏がある」みたいな、陰謀論ではなくて、練習/訓練/修行として有効なのか、と少し考えてしまうからです。すっげー単純化して言うならば、上手い話を聞くのってバカになっちゃうんじゃないの?と思うからです。頭の中によどみなく話が入っていくってことで、解ったような気になってしまうしまうし、それはそれで、本当に解ったのか解ったふりなのかどうかを判定する方法を僕はあまり持っていないのでどうでもいいんだが、それを置いても、僕の議論の作成から離れていくのではないのか、ということです。単純に二番煎じだしねえ。
初心者はまずは偉い人の面白い話を聞いてりゃいいんだよ!というのは反論もできなければする気もないです。

ちなみに、その構えというのが「構えて話をきく」というなんとも同語反復的というか幼稚な方法しか思いついていないというのが、僕の現状です。

そして、明日は今のところ、訓練としての効果を一番期待している(ゼミより高いとはどういうこっちゃ)、言語学の授業です。教室が8畳くらいしかないところで教授含めて四人の授業です。休めない。言語学の研究者だからといって自然言語の多数習得に長けていると思うなよ。これは、このブログでも引用したスーザン・ソンタグも言っていることですが、何かを追求しようと思ったら何かを好くだけでは不足でどこかで嫌わなくてはいけないのです。まあT氏は別に日本語を嫌っているわけではないと思いますが。

まずは手始めに、フレーゲの、thoughtと論理学についての文献を読んでいます。
論理学の守備範囲を心理学と分つ形で限った上で、さらに形容詞「true」や文などの範疇を狭めていく作戦はしたたかだなあ、というのが感想です。文献選択や誰に依拠するかの戦略よりも、論法そのものが剥き出しになっている感があって、僕の興味を引きます。これは、「他の問題に応用が利くぞ」という心ではなくて(それを下心とは呼ばないけど)、剥き出しになるのって特徴的に面白いなあ、という「純粋無垢な」心です。

ボードレールがフランス近代詩の出発点とされるのは、その中にロマン主義を超えた批評性が認められるからだ、のようなことをA教授(Mac使い)がおっしゃってました。その批評性のある部分のおかげで、現代でも解りやすく、共感しやすくなっているのでしょう。では、その話を援用して、論理学を批評的に見るとは、どういった営みになるのでしょうか。アンチ論理学を、論理学は体質的に受け入れることができません。その関係は、言うなれば「断絶」という、関係してません!という関係っていう矛盾したものとして表されるのでしょう。そういう意味では、他のあらゆる分野にも共通しながらそれでいて最も孤立した分野なのかもしれません。むしろ孤立してくれないと役に立たないのがロジックくんなのかもしれません。

現代、つまり僕自身にとって、見通しのよくなる見方は、どういったものなのか。見通しのよさと真理は時に相反する場合(たとえば単純化とか思い込みとかで正しくない推論をしてしまうのです、人間だもの)もありますが、相反さない部分を信用する以外に、道が見つからないのが僕の、近況です。

■■生活
前日就寝:20時ごろ
起床:12時ごろ
昼食:たまねぎごはん+味付け卵
夕食:同上+キムチ「約束のキムチ」
就寝予定:2時(現実的にな)

Monday, April 18, 2011

すしずめ

今日の3限、3分後にはほぼ満席(5席くらいしか残っていない)で、しかもレジュメは配り終わっていました。皮肉でなく、教育的配慮にあふれていました。ともだちの感想「あの人は人格者だ」他は人格破綻したような言い草です。


中学〜高校のホームルームより一回り小さい教室に、中学高校と同じく40人近い人間を詰め込もうとするとどうなるか。
小学生のときのように、隣の人と油断すると肘がぶつかるくらいの距離感、しかも体の大きい大人だ。熱気というものが捏造されそうです。第一印象としては不快なのだが、もしかしたらこれはこれで何らかの緊張感だとかそういう+となるものが発生しているのかもしれないと思うと、学事&講師の方々の判断もいっそう気になります。


不人気専攻の一つだったうちの専攻も、僕の期は15人の大台を越え、さらに新2年生は倍増くらいの感じです(実際の数は知らん)。不景気だから実学なんてやってもしょうがねえよな!のような世を嫌う風潮が出たのかどうか。


授業のあとは、フレーゲと格闘しました。金曜日に講義があるので、それまでに一回整理したものをあげようかと思います。


■■聞いた音楽■■
XTC "Black Sea" (1980, Virgin)
THE JESUS LIZARD "Down" (1994, touch and go)
THE BIRTHDAY PARTY "Prayers On Fire" (1981, 4AD)
いやーバースデイパーティいいですね、誕生日の当てつけとかそういうことではありません。祝ってくださった方たちどうもありがとうございました。


■■借りた本■■
熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波新書)
内山勝利:責任編集『哲学の歴史 古代I』(中央公論新社)
内山勝利/中川純男:編著『西洋哲学史 [古代・中世編] フロンティアの源流と伝統』(ミネルヴァ書房)


■■生活■■
前日就寝:2時ごろ
起床:10時30分ごろ
朝食:コーンフレーク(チョコレート味)、牛乳、コーヒー
昼食:レタスとベーコンのサンドイッチ、味つきゆで卵
夕食:豆腐チャンプルー(たまご/豆腐/新タマネギ/ベーコン)、ごはん3膳
就寝予定:12時ごろ予定
ひとこと:起床以外はモデルとしたい一日だった。

Saturday, April 16, 2011

松屋でも同じ事を思おうか

十二月×日
 朝、青梅街道の入口の飯屋へ行った。熱いお茶を呑んでいると、ドロドロに汚れた労働者が駆け込むように這入って来て、
「姉さん!十銭で何かくわしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ。」
大声で云って正直に立っている。すると、十五六の小娘が
「御飯に肉豆腐でいいですか。」と云った。
労働者は急にニコニコしてバンコへ腰をかけた。
大きな飯丼。葱と小間切れの肉豆腐。濁った味噌汁。これだけが十銭玉一つの栄養食だ。労働者は天真に大口あけて飯を頬ばっている。涙ぐましい風景だった。天井の壁には、一食十銭よりと書いてあるのに、十銭玉一つきりのこの労働者は、すなおに大声で念を押しているのだ。私は涙ぐましい気持ちだった。御飯の盛りが私のより多いような気がしたけれども、あれで足りるかしらとも思う。その労働者はいたって朗かだった。私の前には、御飯にごった煮にお新香が運ばれてきた。まことに貧しき山海の珍味である。合計十二銭を払って、のれんを出ると、どうもありがとうと女中さんが云ってくれる。お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつを交わして、十二銭なのだ。どんづまりの世界は、光明と紙一重で、ほんとに朗らかだと思う。だけど、あの四十近い労働者の事を思うと、これは又、十銭玉一ツで、失望、どんぞこ、墜落との紙一重ではないだろうか––––––。


林芙美子『放浪記』

Friday, April 15, 2011

もう一度読みます

明治憲法において「殆ど他の諸国の憲法には類例を見ない」大権中心主義(美濃部達吉の言葉)や皇室自律主義をとりながら、というよりも、まさにそれ故に、元老・重臣など超憲法的存在の媒介によらないでは国家意志が一元化されないような体制がつくられたことも、決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。「輔弼」とはつまるところ、統治の唯一の正当性の源泉である天皇の意志を推しはかると同時に天皇への助言を通じてその意思に具体的な異様を与えることにほかならない。さきにのべた無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。

丸山真男『日本の思想』

Wednesday, April 13, 2011

矛盾からはなんでも出てくる

前提1:結婚するとき、わたしは髪を切る。
前提2:わたしは遅かれ早かれ、絶対にいつか結婚する。
前提3:だが、わたしは決して髪を切ることはない。

結論:わたしは誰とでも望めば結婚ができる


ここに述べられていることが現実かどうかはわからない。それをさておいても、論理として、推論としても、これは一見、めちゃくちゃな推論に思える。
だが、これは論理学的に妥当な推論になる。
真理表を書けば見てわかるが、反例がない。つまり、「前提がすべて真でいて結論が偽である」という場合がただのひとつも存在しない。というのも、前提がすべて真になる場合があり得ないから。

当然、むむむ、とひっかかるのだが、そのひっかかりは、何なのか。

当面の、「何を勉強しているの?」ってきかれたときの一般用回答にしよう。

Tuesday, April 12, 2011

もっとも自明なこととはなにか

『知の欺瞞』
パラパラ読んでみました。
「知的詐欺」とでも訳せるタイトル。岩波書店〜訳者とのやりとりが気になります。
マイケル・サンデルなど政治系を抜くならば一番最近(つってもかなり前だなあ)の思想系ベストセラーになるのか。


科学というドグマから、科学の濫用をいさめるということには、問題を感じません。


比喩を否定はしないが、無意味かつ無根拠な比喩にどれだけの意味があるのか、という著者の論を全うしようとするならば、「どこまでいけば明らかな類似としてもよいのか」を恣意に任せておくのは、少しリスクを残すように思えました。批判相手たちは数学の理解そのものが矛盾しているのでその点で事なきを得ています。


★★読む本リスト
トルストイ『アンナ・カレーニナ』
アンケ・ベルナウ『処女の文化史』
林芙美子『放浪記』
廣松渉『今こそマルクスを読み返す』
松坂和夫『集合・位相入門』
プラトン『国家』
ロラン・バルト『明るい部屋』
スーザン・ソンタグ『写真論』
サイード『オリエンタリズム』

Friday, April 8, 2011

ひきこもりは現代の問題か

「それじゃどんな暮らしをなさってきたとおっしゃるの、もしも身の上話がないとすれば?」と彼女は笑いながらさえぎった。
「ぜんぜんそんなことなしにですよ!よくいわれるように、一人でひっそりと暮らしてきたんです、つまり、まったく一人ぼっちで–––一人、完全に一人きりで。わかりますか、一人きりというのがどんなことだか?」
「でも、どうして一人きりですの?するといままで誰にも会ったことがないとおっしゃるの?」
「いや、そうじゃありませんよ、会うことには会いましたがね、とにかくぼくは一人ぼっちなんです」


ドストエフスキー『白夜』(角川文庫、小沼文彦訳)

Thursday, April 7, 2011

メタ哲学の方法

 おお、なんじら高貴なるストアの人々よ、なんじらは「自然にしたがって」生きんと欲するのであるか?これはまた何たる言葉の欺瞞であろう!自然なるものを考えてみよ、–––それはかくも無際限に浪費し、無際限に冷淡に、意図もなく顧慮もなく、憐憫もなく正義もなく、凄惨に荒廃してかつ不定である!その無関心が同時に力になることを考えよ。いかにしてなんじらはこの無関心にしたがって生きることがありえよう?生きる–––これこそはまさに、この自然が存在するとは別のように存在したいという意欲ではないか?


ニーチェ『善悪の彼岸』、「哲学者の偏見について」