今日はプチ有名人のドゥルーズ講義に出席しました。ドゥルーズはDzと略すのが通です(たぶん)。
非常に話が上手い人だったが、話が上手な人には、構えてしまいます。
「上手い話には裏がある」みたいな、陰謀論ではなくて、練習/訓練/修行として有効なのか、と少し考えてしまうからです。すっげー単純化して言うならば、上手い話を聞くのってバカになっちゃうんじゃないの?と思うからです。頭の中によどみなく話が入っていくってことで、解ったような気になってしまうしまうし、それはそれで、本当に解ったのか解ったふりなのかどうかを判定する方法を僕はあまり持っていないのでどうでもいいんだが、それを置いても、僕の議論の作成から離れていくのではないのか、ということです。単純に二番煎じだしねえ。
初心者はまずは偉い人の面白い話を聞いてりゃいいんだよ!というのは反論もできなければする気もないです。
ちなみに、その構えというのが「構えて話をきく」というなんとも同語反復的というか幼稚な方法しか思いついていないというのが、僕の現状です。
そして、明日は今のところ、訓練としての効果を一番期待している(ゼミより高いとはどういうこっちゃ)、言語学の授業です。教室が8畳くらいしかないところで教授含めて四人の授業です。休めない。言語学の研究者だからといって自然言語の多数習得に長けていると思うなよ。これは、このブログでも引用したスーザン・ソンタグも言っていることですが、何かを追求しようと思ったら何かを好くだけでは不足でどこかで嫌わなくてはいけないのです。まあT氏は別に日本語を嫌っているわけではないと思いますが。
まずは手始めに、フレーゲの、thoughtと論理学についての文献を読んでいます。
論理学の守備範囲を心理学と分つ形で限った上で、さらに形容詞「true」や文などの範疇を狭めていく作戦はしたたかだなあ、というのが感想です。文献選択や誰に依拠するかの戦略よりも、論法そのものが剥き出しになっている感があって、僕の興味を引きます。これは、「他の問題に応用が利くぞ」という心ではなくて(それを下心とは呼ばないけど)、剥き出しになるのって特徴的に面白いなあ、という「純粋無垢な」心です。
ボードレールがフランス近代詩の出発点とされるのは、その中にロマン主義を超えた批評性が認められるからだ、のようなことをA教授(Mac使い)がおっしゃってました。その批評性のある部分のおかげで、現代でも解りやすく、共感しやすくなっているのでしょう。では、その話を援用して、論理学を批評的に見るとは、どういった営みになるのでしょうか。アンチ論理学を、論理学は体質的に受け入れることができません。その関係は、言うなれば「断絶」という、関係してません!という関係っていう矛盾したものとして表されるのでしょう。そういう意味では、他のあらゆる分野にも共通しながらそれでいて最も孤立した分野なのかもしれません。むしろ孤立してくれないと役に立たないのがロジックくんなのかもしれません。
現代、つまり僕自身にとって、見通しのよくなる見方は、どういったものなのか。見通しのよさと真理は時に相反する場合(たとえば単純化とか思い込みとかで正しくない推論をしてしまうのです、人間だもの)もありますが、相反さない部分を信用する以外に、道が見つからないのが僕の、近況です。
■■生活
前日就寝:20時ごろ
起床:12時ごろ
昼食:たまねぎごはん+味付け卵
夕食:同上+キムチ「約束のキムチ」
就寝予定:2時(現実的にな)
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