一方でそれはガマガエルをふみつぶす楽しみでもあり、人を差別して見下して踏みにじっていじめる楽しみでもあり、強姦魔や連続殺人鬼のよろこびでもある。ぼくは知らないけれど、自分の信念の命ずるままに、サリンを撒いてカーフィルどもを虫けらのように殺したり、小学生の頭を切り落としたりするのも、すごいおもしろさがあったんだろう。いずれかれらにはそれをきちんと語ってほしいなと思う。その記述はたぶん「我が子を失った親の悲しみ」なんていう紋切り型をはるかに上回るパワーを持つだろう。だってかれらがそのとき感じていた「おもしろさ」のおかげで何をしでかしたか考えてみるといい。ふつうの人がいくら金をつまれてもやらないようなことを、ボランティアでやらせてしまうだけのおもしろさというのは何なのか。きちんとそれを記述すれば、必ずそれは伝染して追随者を生むにちがいない。
「心ときめくミームたちを求めて」より
蓮實重彦の文は、とてもつらい立場におかれていて、かれが言おうとしていることを普通のことばで言おうとすると、どうしても「人間、結果はどうあれ努力が大事です」とか「やはり結果を出さないとだめです」とか「出会いを大切にしましょう」とか、そういう鼻くそみたいなお説教になってしまう。それはウソではなくて、一面の真実を持っているんだけれど、どっかできいたお説教だと思われた瞬間に、そのことばはもう頭の芯には届かずにバイパスされてしまう。しかもこういうのには、一面の真実のほかに実はいろいろただし書きがついている。たとえば努力は大事だけど、世の中には無駄で無意味な努力もあって、その努力を輝かせるにはある種の結果出しがどうしても必要なんだ、とか。
だから蓮實は、「例の」お説教だと思われないように、様子をうかがうような文章をつむいでいくんだ。そして予想外の方向からせめて、なんとかみんなの頭の芯にたどりつこうとする。同時に、お説教からはばっさり切り捨てられるいろんな注意書きやただし書きも温存しようとする。
「手っ取り早い結論は諸悪の根源である」より
以上、山形浩生『新教養主義宣言』(晶文社)所収
前置きをしなくとも経済書で脱構築といえば冗長かつ何でもアリな文芸批評のことね〜、とネタとして使えるような、共通言語としての教養を求めるこの本自身が、教養を必要としているとまではいかなくともそれへの渇望が露となった文章で書かれているこういう見取り図だよ、わたしが問題にしているのは。
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