「志望理由は」
「子供が好きだからです」
「なぜ好きなの」
「かわいいからです」
「かわいくない子がクラスにいたらどうするの」
「好きじゃない子がクラスにいたらどうするの」
ここで詰んでしまうようでは駄目です。
「みんな、かわいいです」
「ほんとかな」
「ほんとです」
「みんな『かわいい』なら、『かわいい』の意味がないじゃないか」
「子供は、みな、かわいいんです」
「大人は、かわいくないのもある」
「そうです」
「動物はどう、人間以外の」
「かわいいものと、かわいくないものとあります」
「君にとっては、子供ならば、すべてかわいい」
「かわいい子供が好きなんじゃなくて、
かわいい子供が好きな自分が好きなんだろ?」
というような、意地悪はもう飽きました。
それでも、「かわいい」たる感覚だけを人に尽くす為の基準とするような
都合のいい弱いものしか愛せないような
そういう人
政治ではなく、わたしはむしろここで恐怖します。
かわいいの定義は多様であろうが、最初からかわいい奴らはある意味可愛くない。子供としての可能性があまりないように思う。最初手の掛かる奴らの方が結局はかわいくなってくるんだよね。むしろ、これっぽっちもかわいくない奴らの中にかわいさを見つけていくことが教員の喜びなのではないのかな。
ReplyDeletePS 愛の帷でやった山中源平がおもしろかった!
なるほど。でもしかし、僕がよく考えるのは、そもそも「かわいい」という直観を動機にしてしまうことの、おそろしさなのです。かわいくない奴のかわいいところを漏らさず見つけてやることができるのならば、それは理想的状況として問題がなさそうなのですが、そうだとしても、それでもかわいくない奴はどうすればいいの、という問への回答が保留される気がするのです。
ReplyDelete愛の帳、勤務校の備品まで持ち出す大活躍だったそうではないですか。
山中源平などの研究実践なんて現場への貢献もあって素晴らしいイベントだったようですね、参加できなかったのが残念です。
PS
春あたりに懐かしい人たちでスキー行きたいですね。