ともあれ、メルヒェンを児童文学に囲い込んだ近代は、さらに児童文学そのものを「おんなこども」のものとして囲いこみ、第二列に置いたのだった。そんな児童文学について、わたしに言えることを急いで言ってしまえば、いまやこの囲い込みがあやしいのだ。なぜなら、「おんな」も「こども」も、近代によって引かれた輪郭をかなぐり捨てて久しいからだ。だとしたら、児童文学はいまさらなにに向けて囲いこまれるのか。その対象が、近代というコンテクストでのみ成立していた自明さをとっくに失っているというのに。
おとなの文学のすべてを子供が享受できない以上、児童文学というジャンルはこれからもあるだろうし、おおいにあっていい。ただし、近代の壮大な意図の一貫として出発したというトラウマに、いつまでもこだわることはない。そんなものにいまだに足を引っ張られている(と思いこんでいる)側の責任と言っていい。なにしろ男も、「近代の主体」などというカミシモを脱いで久しいのだ(でしょ?)。見えない囲いこみの実効性を疑うときはとっくにきている。事実、近代が仕掛けた囲いこみをぶち破る気概のある作家による力ある作品は、すでにわたしたちのまわりにおびただしい。
でも、もっとどんどん出て来るといい。作戦としては、そのむかし、『ガリヴァー旅行記』のようなおとなの文学を子供が横取りしたように、こんどはおとなが横取りしたくなるような児童文学を産出することだ。昨今の子供の状況に向き合おうとするならば、たとえば児童文学で『蠅の王』を書くことこそが求められている現実から目をそらすことはできないはずだ。
池田香代子「あいまいな児童文学のわたし」より(青土社、ユリイカ1997年9月号)
No comments:
Post a Comment