漱石をやりすごすこと
漱石をそしらぬ顔でやりすごすこと。誰もが夏目漱石として知っているなにやら仔細ありげな人影のかたわらを、まるで、そんな男の記憶などきれいさっぱりどこかに置き忘れてきたといわんばかりに振舞いながら、そっとすりぬけること。何よりむつかしいのは、その記憶喪失の演技をいかにもさりげなく演じきってみせることだ。顔色ひとつ変えてはならない。無理に記憶を押し殺そうとするそぶりが透けてみえてもいけない。ただ、そしらぬ顔でやりすごすのだ。それには、首をすくめてその影の通過をじっと待つ。肝腎なのは、漱石と呼ばれる人影との遭遇をひたすら回避することである。人影との出逢いなど、いずれは愚にもつかないメロドラマ、郷愁が捏造する虚構の抒情劇にすぎない。だが、やみくもに遭遇を避けていればそれでよいというわけのものでもない。漱石と呼ばれる人影のかたわらをそっとすりぬけようとするのには、それなりの理由がそなわっている。それは、ほかでもない。その漱石とやらに不意撃ちをくらわせてやるためだ。漱石を不意撃ちすること。それも、ほどよく湿った感傷の風土を離れ、人影が妙に薄れる曖昧な領域で不意撃ちすること。だが、なぜ不意撃ちが必要なのか。誰もが夏目漱石として知っている何やら仔細ありげな人影から、自分が漱石であった記憶を奪ってやらねばならぬからである。人影は、いかにもそれらしく夏目漱石などと呼ばれてしまう自分にいいかげんうんざりしている。そう呼ばれるたびに自分の姿があまたの人影からくっきりときわだち、あらためていくつもの視線を惹きつけてしまうさまに苛立ち、できればそんな名前、そんな顔を放棄してみたいとさえ思う。ところがなかなかそうはいかない。このとりあえずの名前でしかない夏目漱石を背負った人影に瞳を向けることが当然の義務だとでもいいたげに、誰もが、善意の微笑さあえ浮かべているからだ。人影は、この善意の微笑にまといつかれてほとんど窒息しかかっている。しかも、それを裏切る術を人影は知らない。だから、その顔も、その声も、いかにも漱石ふうに装いながら、息苦しさを寡黙に耐えつつ人影はあたりを彷徨するほかはないのだ。だから、みんなが、つい声をかけて呼びとめたくなるのもしごくもっともなはなしというべきではないか。しかし、いまは、遭遇への誘惑をたって、こちらの存在をひたすら希薄に漂わせておこう。そして、漱石たる自分に息をつまらせている人影から、抒情にたわみきった記憶を無理にも奪いとってやる必要があるのだ。顔もなく、声もなく、過去をも失った無名の「作家」として、その人影を解放してやらねばならない。漱石を不意撃ちしてその記憶を奪い、現在という言葉の海に向って解き放ってやること。そして、言葉の波に洗われて、その人影がとことん脱色される瞬間を待つこと。さらには、書く人としてあったが故にかろうじて漱石と呼ばれうるその人影に、匿名の、そして匿名であればこそ可能な変容を実現せしめ、あたりに理不尽な暴力を波及しうる意味と記号の戯れを、「文学」と呼ばれる言葉の地場の核心に回復してやらねばならぬのだ。そのためにも、ひとまず、漱石をそ知らぬ顔でやり過ごさなければならない。だが、それは何より厄介な仕事である。
仰臥と言葉の発生
「生憎主人はこの点に関して頗る猫に近い性分」で、「昼寝は吾輩に劣らぬ位やる」と話者たる猫を慨嘆せしめる苦沙彌の午睡癖いらい、「医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下した」という冒頭の一行が全篇の風土を決定している絶筆『明暗』の療養生活にいたるまで、漱石の小説のほとんどは、きまって、横臥の姿勢をまもる人物のまわりに物語を構築するという一貫した構造におさまっている。『それから』の導入部に描かれている目醒めの瞬間、あるいは『門』の始まりに見られる日当たりのよい縁側での昼寝の光景、等々と逐一数えたてるまでもなく、あまたの漱石的「存在」たちは、まるでそうしながら主人公たる確かな資格を準備しているかのごとく、いたるところにごろりと身を横たえてしまう。睡魔に襲われ、あるいは病に冒され、彼らはいともたやすく仰臥の姿勢をうけ入れるのだ。横たわること、それは言葉の地場の表層にあからさまに露呈した漱石的「作品」の相貌というにふさわしい仕草にほかならぬ。事実、『吾輩は猫である』の猫が報告する主人の日常は、家人を偽って書斎でうたたねをするきわめて不名誉なイメージではじまっていたではないか。「吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしてゐることがある。時々読みかけてある本の上に涎をたらしてゐる」と、猫は容赦なく暴露する。なるほど、ここでの苦沙彌は、机にうつ伏しているのではあろう。だが、その名からしてもいかにも意義深い「臥龍窟」への不埒な闖入者たる迷亭が、「時にご主人はどうしました。相変わらず午睡ですかね、午睡も支那人の詩にでてくると風流だが、……」といった調子の揶揄を苦沙彌の妻に浴びせるとき、彼は、間違いなく人目を避けて身を横たえている。そしてその仮の眠りは、迷亭の場合がそうであるように、きまって他社の侵入によって脆くも崩れ去ってしまう。というより、むしろ、苦沙彌がたえず睡眠への斜面を仰臥の姿勢で滑りつつあるが故に、その周辺にはおびただしい数の多彩な顔ぶれが寄り集ってしまうかのようなのだ。その顔ぶれが、「臥龍窟」をとりとめのない饒舌でみたすであろうことは、あえて指摘するまでもない。
蓮實重彥『夏目漱石論』(青土社)
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