Saturday, October 15, 2011

成熟と循環(RP)

 
 九〇年代、特に後半の五年間に広く社会に共有された「引きこもり/心理主義」に対し、優れたアプローチを残した三つの「九十五年の思想」––––––宮台真司(前期)、『エヴァ劇場版』、『脱正義論』––––––は、誕生後すぐに、死んだ。
 それは総じて、決断主義に対する敗北だった。「九十五年の思想」はいずれも、九○年代的な「引きこもり/心理主義」によって肯定される自己像=キャラクター設定的なアイデンティティを保持するためには、その設定を承認するための共同体=小さな物語が必要であること、そしてその小さな物語はその存在を維持するために時に他者に対して暴力性を発揮することを––––––具体的にはオウム真理教を通して認識していた。そしてその処方箋として、ある種のニーチェ主義的な強さ(「意味から強度へ」)を提示した。それはより具体的には、特定の小さな物語に依存することなく、価値観の宙吊りに耐えながら(気にしないにしながら)生きるという成熟モデルである。
 しかし、これらのニーチェ主義的成熟モデルは、性急に小さな物語を求め、その共同体の中で思考停止する「引きこもり」から「決断主義」への潮流に、批判力を持ち得なかった。前期宮台「ニュータイプ論」は時代とともに破綻し、『エヴァ劇場版』と『脱正義論』は「セカイ系」と『戦争論』という小さな物語への依存=決断主義に回収された。
 なぜか––––––それは、現代を生きる私たちは小さな物語から自由ではあり得ないからだ。たとえ「何も選択しない」という立場を選択しても、それは「何も選択しない、という物語の選択」としてしか機能しない。人間は物語から完全に自由ではあり得ない。私たちは小さな物語たちを、何らかの形で選択させられてしまうのだ。にもかかわらず「九十五年の思想」小さな物語から自由な超越的な視座=「外部」を設定する、ある種の物語批判を通して強い「個」の確立を志向していた。
そして、個人の生が求める意味=物語の備給という欲望に応えない「九十五年の思想」は、物語批判的な超越性という空手形が不渡りを出す形で破綻を迎えた。存在し得ない外部性に依存する「九十五年の思想」の消費者たちは耐えられず、決断主義的に意味を備給する小さな物語に回収されていったのだ。


宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房)

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