したがって、わたしは、『羅生門』という映画を焼きなおして、『暴行』という映画をつくったリット監督の頭のよさに感心すると同時に、好んでそんな焼きなおし映画を日本へ輸入した連中の頭のわるさをにがにがしくおもいました。なるほど、四、五年前、同じ黒沢明の監督した『七人の侍』という映画の模造品である『荒野の七人』という映画をつくったジョン・スタージェス監督の例がないこともありません。正直なところ、あのときには、こんどのばあいとは反対に、わたしは、スタージェスの頭のわるさと、その監督のつくったなんの変てつもない西部劇映画を日本に輸入した連中の頭のよさに感心しました。アメリカ製の映画のなかで理想的な商品だといえるようなものは西部劇だけであります。『荒野の七人』といったような典型的な西部劇映画をつくるために、なんでわざわざ高いゼニをだして、『七人の侍』という映画の再映画化権を買う必要がありましょう?それは良心的だといえばいえるのかもしれませんが、ゼニをドブにすてるようなものではありませんか。むしろ、『七人の侍』という映画のほうが、西部劇映画の模造品であって、パテント料をだすとすれば、こちらからだすのが当然のような気がします。泥棒に追い銭とは、スタージェス監督のようなおめでたい行きかたをさすのでしょう。これに反して、『荒野の七人』という映画を日本に輸入した連中は、追い銭をいただいた上に、アメリカ製の理想的な商品を獲得したわけであって、まさに抜け目のないバイヤーであるといわなければなりません。
花田清輝「日本製ということ」(岩波文庫『花田清輝評論集』所収)