先日は、ひさしぶりに徹夜をしました。
内定が出た友人のお祝いで、黒澤清「キュア」を鑑賞し、安い(失礼)シャンパンを空けて、宅配ピザをとりました。それとコーヒーだけで、案外夜は明かせるものです。
その内定者が「時間を増やす手っ取り早い方法は徹夜だ」と改めて言うので、何か背後にある壮大な理論を感じてしまいました。
そして、今日は、なすの味噌炒めとビールを飲んでいます。ビールは、そのお祝いで残ったハートランドビール。茄子の炒め物をするときはフタをしめて水を出させることが大切、らしいです。
小学校の頃の親友であったコマキくんは茄子が嫌いでした。あの味においしさはないだろう、と。
僕は茄子がわりと好きだったし、今も好みます。ですが、コマキと友人であることを抜いても単独で茄子の不味さというものが想像できます。君の言う茄子の底知れぬ淡白さとかは苦手な人がいるよねーとかいう「言葉を理解する」レベルではありません。ぼくは食べながらも、その底知れぬ淡白さを捉え、嫌いもする。そういう意味で、なすの不味さというものが理解できる。少なくともわかった気でいる。
「まずさはわかる、しかしそこを乗り越えて、そここそが好きなのだ」という、反-反論と範囲の限定というかたちで、ぼくは茄子をより一層ただしく愛することができるのです。
これは食べ物の好き好みだけの話なのか、についてはまだわかりません。
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