Monday, May 23, 2011

英語とアニメと早起きと


遠い将来の何かのために役立つだろう、という曖昧な動機だと、英語は身に付きにくい、みたいな話をよくききます。何か、「明確な理由」というものが必要なようです。パトナムが死ぬ前に英語で文句つけたい!とか、無料ポルノサイトが今すぐ見たい!とか、金髪のちゃんねーと仲良くしたい!とか、全米オープンに出場したい!とか、具体的で切羽詰まったものがあったほうが、確かに、身に付きやすそうです。


今日、アニメファンのゼミメイト(ゼミが同じ人、という意味)が「日曜日が一番早起きだよ」と、つぶやいていたのが、印象に残りました。「7時には起きないと」


早起きにしても、結局のところ、このような、切羽詰まったものが、必要なようです。ちなみに、何が切羽詰まらせるかというかと、彼女の場合(というか多くのリアルタイムでおっかけているアニメファンの場合)ハードディスクに録画をしてしまうと、追いかけきれなくなってしまうので、見逃すととてもやっかいなことになるそうです。なんてったって「いやー今期は24本くらいしかないからねえ」っておかしくないか、聞き間違いかも知れません、飲み会終盤でしたし。


1の理由の一つに、「好きこそものの上手なれ」というものが、紛れ込んでいるのでしょう。好きなものしかやらねー、をより充実させるために、部分的に早起きという習慣を(できれば負担なく楽に)取り入れたいと思っている虫の良い私にとって、好きなことしかやらない暮らしを充実させるための早起き=やりたくないことの「中」に、やりたいことを「装備」させる、という作業は、構図として入り組んでいますが、説得力はあるものです。その納得を力に、がんばります。


ごちゃごちゃいってないで起きればいいんだよ起きれば、という原理主義におびえながら。

Sunday, May 22, 2011

エクリチュールとか航海とかなんとなくむず痒いけれども

オープンエンディッド・ライティング・プロセス


 さて、ここで考えてみたい人間にとっての書くという行為は未知の、今まで考えたことのもなかったような世界に到達するための活動である。こうした目的を持つ作文の技法はオープンエンディッド・ライティング・プロセスと呼ばれる。
この作業は未知の大陸への大航海(VOYAGE)に例えることができる。どこかに向かってまず旅立ち、陸地が見えたらそこへの上陸方法(LANDING)を考えるのだ。まず旅立ちから考えていこう。
 この段階の目的はできる限り最大のカオスを作りだし、どこに向かっているのかわからなくすることである。新しい資料に浸りきり(RESEARCH)、わき道にそれ、あちこちを覗き見し(FIRST TIME、対象との最初の出会いは大切である。自由に柔らかな精神で接触すべきだ)、混乱を作り出す。そしてただぶらぶらする。やがてなにか書く時期がくる(FREE WRITING)。とりあえず、二〇分から三〇分自由に書いてみる(IMMERSION)。そして読み返してみる。
自分の書いた文章の中に、なんらかの中心となるアイデアはあるか、今まで考えなかったことがあるか、そしてもし何か言いたいことがあるとしたら何かを文章の中から、つまり自分のエクリチュールの中から捜し出す(PERSPECTIVE)。そしてその考えについてまた文章を自由に書く。
 この作業は言葉の海へ出かけていく動きと、自分の動きになんらかの跡付けを試みる動きである。この作業を気長に繰り返していくと、何が書きたいのかのヴィジョンが見えてくる(VISION)。だが、ここで明確なアウトラインや展望を作る必要はない。(ROAD MAP、つまり、どの方向に向かおうとしてるかのデッサンでよい)。
ヴィジョンが見えた段階(LANDING)で第一草稿を書き始める(FIRST DRAFT)。書きながら(FOCUSED GESTATION)アウトライン(OUTLINE)を考えていく。出来上がった原稿をもう一度検討して(REVISION)、文体や文法、綴りを検討して(EDITTING)、清書をする(FINAL WRITING)。

以上がオープンエンディッド・ライティング・プロセスである。技法をエイジェントに分けると

VOYAGE
RESEARCH
FIRST TIME
FREE WRITING
IMMERSION
PERSPECTIVE
VISION
ROAD MAP
LANDING
FIRST DRAFT
FOCUSED GESTATION
OUTLINE
REVISION
EDITTING
FINAL WRITING

となる。



奥出直人「ライティング・エンジン」現代思想1989年3月号より

Saturday, May 21, 2011

ご無沙汰しています


とてもひさしぶりの更新になりました。


無精をお詫びする前に、わたしの、少し過去の話を、させてください。
僕は講義に出る前と帰ったあとに、さまざまなインターネット上のチェックをすることを日課としています。メールボックスやらツイッターやらに加え、わたしの趣味というか役目は「友人のブログにきちんとアクセスすること」です。さっき数えたら訪問すべきブログは19個(5月21日現在)。


これまでの本ブログの、かつての某しょうこたんには遠く及びませんが、一週間に5回更新という、わたし基準ではそれでも驚異ともいえるハイペースの原因の一つに、「あーあ。毎日チェックしているのになんでみんな全然更新しないんだろう。ぼくはとても楽しみにしているのにな」から「よし。わたしがブロギングするからには、きちんと毎日、それが叶わなくともそれに近しい更新をしよう」という、飛躍を含む、消費者目線に立った何かしらの過剰なサーヴィス精神=論理があったように思えます。


ここで、わたしは、ひとつのことを学んだのです。
これまでは、そう、子どもだった。書く側の苦労など考えない。いや、考えたとしても「なんで毎日、いや一週間に一本くらいは、ちょろっと内容のあるもの書けないのかな、文章書くのが嫌いならブログなんて最初からやらなければいいのに。辛いだけだよ」という自分がノリノリであることによる上昇気流に乗っかって2万フィート上空からもの言う、そんな高慢な態度でしかなかったのです。
いまは、「教える側の気持ちにもなれよお前ら・・・」という、脱消費者意識を遂げた(やったことねえけどおそらくは)教育実習生の気持ちです。
というわけで、書かない、あるいは、書けない、ということは、優しさに包まれていたのです。


堕落の実というのはなんとも説得力に満ちあふれているのでしょうか。
説得というものを一部放棄する他、もしかしたら、朝起きるだとかメールの返信をしっかりするだとか寝坊しないだとか課題のリーディングこなすだとかは、達成されないのかと、思うと、論理の話をしているのにも関わらず、わたしは悲しくなるのです。


お詫びしようと思ったら悲しくなってきたのでここらでおしまいです(結局詫びず)。
おやすみなさい。

Tuesday, May 10, 2011

いちご100%について

わたしのゼミで、河下水希『いちご100%』について考える上で、重要かと思われる観点について話し合った。

(0)はじまり
「『いちご100%』の作者は河下水希である」という言明があったとしよう。
事実だとされているが、この現実世界においてこの言明が正しいかどうか、ということは問題にしない。「世界中には同姓同名、偽物など河下水希さんは複数名いますよ~」というような疑問も、それはそれで正しいのだが、ここでは黙っていることにする。
むしろ、長期的な視点において問題にしたいのは、この言明が正しい、とされるのはどのような場合なのか、ということだ。そして、この言明と現実世界はどのように対応して、どのように食い合っているのか、を明らかにすることだ。


(1)かの有名な合成原理
文章というものは、それを構成している言葉の意味によって成り立っているものだ、と考えてみる。
これは、たとえば「犬が吠えた」という文章をとっても、それを成り立たせている(細かい区分の方法は別として、少なくとも構成はしている)、「犬」「が」「吠え」「た」のそれぞれの意味の集まりだ、と考えることは直観的には、うん、そうなんじゃないの、と感じさせる。


(2)合成原理の言い換え
上で述べた前提を、「意味が表される仕方には依存しない」、と書き換えてみる。つまりは、「どう言おうが同じものが指せる、言い換えは可能」「同じものを指すことができたのならば同じ意味をもつ文章」だとしようぜ、ということだ。
このこと単独では意味はわかるし、直観にも叶う。
だが、(1)の同義となっているかがよくわからない。わからないのでとりあえず次へ。


(3)ふしぎなことが起きる
(2)をふまえると、「『いちご100%』の作者は河下水希である」「河下水希は河下水希である」は、まったく同じ意味をもった文ということになる。
どういうわけか。どういう了見か。


(4)了見
『きまぐれ★オレンジロード』の作者、は、河下水希という漫画家である。もっと言えば、河下水希という名の現実の何かと対応している。ちょっと待て。では、そこのところをマルッと入れ替えても同じではないか。
A=AとA=Bは、等号を信じるのならば結局同じこと言っているでしょ、と同じことだ。A=BならB=Aだ、ゆえにA=Aと同じことを言っているのだ。


のようなことをフレーゲは主張しているのではないだろうか

と、ゲーデルは主張しているのではないだろうか

のようなことをわたしは授業でやっている。
サークルなど趣味活動のさらなる充実などにとどまらず、就職活動などの自己実現や、現代日本における社会貢献に役に立つこと請け合いである。


(0)の、もっともな疑問に対しては、以下のような構えをとることにする。構えというか予感みたいなものだけど。
(1)はおそらく心理学的見地による意見が必要だな。ばらばらのパーツがいくら集合したところでそれだけでは意味は持ちえず、われわれはそれら集合の全体として意味をとらえているのだ、という話があるし。

古代哲学は文献の都合上、孫引きありきという面白い分野らしいのだが(この話はもう少ししたらまたしたいです)、ここでもまた孫引き。あとすごくどうでもいいけど古代によくいる「偽○○」。「偽ヘルメス文書」とかの。よく知らんけど。それを英語ではps-ということにしびれた。いや発音知らんので響きというより汎用性に。これからいやなことがあったら、頭の中でps-を頭につけよう。うん。そうしよう。間違っているよね。うん。そうだよね。

Sunday, May 8, 2011

ゲイの普遍と特異と

 ところで、たとえば女性の初花を十二、三歳の上に選ぶというような贅沢は、昔の大名とか将軍とかでない限りは許されない。それに又、異性愛は広き門である。たとい理想的なベターハーフを穫ることはこの地上では絶望であるとにしても、ともかく相手は何処にでもいる。環境についての顧慮は不要だし、なお何人にも先刻了解ずみの事柄に属する。それに反して、少年愛はきわめて狭き門である。「教師や監督者の中に小児を性的に誘惑する者が非常に多いのは、その好機会が与えられているという理由だけによって説明される」フロイトが述べているように、ある境位に恵まれない限り、何とも手の打ち様のないものである。初めに挙げた絵巻物の人物が雲中高貴に属し、その手廻り品として有職故実の調度が見られるように、少年愛は経済的背景と教養とに多大のつながりを持っている。それは開化につれて、次第に市民間に伝播して行く。そうではあるが、宮廷とか僧院とか、武家とかを中心とする少年愛的雰囲気に身をおくのでなければ、此種の本能は呼び醒まされない。少年愛に目ざめるためには特権階級に身を置く必要があった。



 さらに又、あらゆる女性は潜在的には美女の資格がある。女はだれでも「女」に相違いないからだ。女性は模型自然だと云えるが、美景が滅多にないように美女も到って稀である。しかし庭木や鉢植が同じ模型自然に属している限り、別に素敵な美女でなくともわれわれを十分に愉しませてくれる。で、「まず差支えない」と云うことになる。少年ではそういう具合に行かない。先方が別に待機しているわけでなく、実に根気の要る開発であるからだ。それに少年愛を「美道」とも呼ぶように、相手は「美少年」でなければならない。美少年とはこの場合、「他者の裡に再発見したナルシシズム的対象のことだ」と云っておこう。それにしても、少年らはその総てが美少年なのでは決してない。


稲垣足穂『増補改訂 少年愛の美学』(角川文庫)


■■カラオケ
昨晩は、ゲイ的文化とカラオケと盛り上がりと大衆文化と異端と人気と無意識の愛好といろいろなことを勝手に示唆深く受け止めたカラオケでした。
新宿二丁目で受ければ日本中で受ける、この法則はジャニーズしかり、最近ではAKB48も証左になったそうな(そういう観点でAKBのブレイクを予見している文章をどこかで読みました。なんだっけな)。
浅いジェンダーの観点からすると、クイアは忌み嫌われるものとする暗なる前提のもと、それは人道的に悖る(これだと浅すぎるが例ということでご了承を)だろうという論調になりがちです。不勉強からかも知れないが私もそう感じる。
この暗なる前提の提示、というのが、やっかいで、ゲイのある側面を見失うことに繋がるのでは、という懸念を抱きました。実はみんな、同性愛をどこかで本当は愛しているのではないだろうか。そういった可能性も考慮しながら進める議論を放棄しているのではあるまいか。
ギリシア期の同性愛文化を知ること、と、21世紀日本の自分に引き寄せて考えることの違いについて、考えなくてはいけないのだ、と強く感じました。


■■暮らし
□前日就寝:?
□起床:?
□朝食:マクドナルドでホットコーヒー
□昼食:カジュアル中華で餃子、エビチリ、チャーハン、杏仁豆腐、バンバンジー、青菜の塩炒め
□夕食:ゆでたまご、チーズ、ピノ

Sunday, May 1, 2011

早起きっていいのか

 人いきれの為だけでなく、気分が悪い。それは寝不足の所為である。今朝は七時に起きて、一体私はそんな時間に起きた事がないので勝手がちがって、目がぱちぱちする様だったが、それから今こうして、十時にここまで出て来る間、わき目も振らずせかせかと、一心不乱にでかける支度をしたのだが、上厠したのと顔を洗ったのと、洋服を著たのとで三時間が経過した。勿論御飯を食べるなどと云う、そんな悠長な真似はしていられない。尤も腹が減っていると云うのは、私の一番好きな状態だから、御飯を省略したのは一向構わないが、何しろ、する事なす事一一にひどく手間が掛かって、何事もさっさと埒があかないのが困る。
 だから午前十一時の汽車に遅れない様に乗ると云う事は、私に取って難事なる事を自分で承知しているから、今日の出発をきめて以来、昨日も一昨日も、朝は無理をして早く、八時に起きた。二三日の練習で癖をつけようと考えたのである。しかし何のたしにもならなかった。ただ眠かったばかりで、その日にそうした事が翌日の助けなぞになるものではない。朝は無理をして起きたけれど、つまり起きる方は無理を強行したけれど、夜寝る時に無理をして眠ってしまうと云う事はしなかった。矢っ張りいつもの通りなんにもしないで、いつ迄も何となく起きていて夜更かしをするから、朝早く起きただけ損をした事になる。それが一日じゅう残って、寝不足で気分が重い。二三日早起きして癖をつけるなどと云うのは、丸で意味のない思いつきだったと云う事が、後になってよく解った。寧ろその前日迄、何日間はふだんよりも、もっとよく寝ておいて、当日一日だけの寝不足にした方が余っ程利口であったと思う。
 どこかへ出かけるのもいいが、朝の支度や寝不足や、そう云う事がつらいので、つい億劫になり出不精になる。人に頼まれたって引き受けるものではないが、阿房列車は自分で思い立ったのだから、少少眠くても仕方がないだろう。


内田百閒『第一阿房列車』(新潮文庫)




最後の段落で、この前引いた「旅」に関する二つの文章(冨樫、川上)から強引に早起きに結びつけます。
早起きするかしないかは、言ってみれば、内田百閒と宮沢賢治の違いなのかも知れません。午前中がプライムタイムだ、とかいうのはおそらく(うさんくさいけど「脳科学的にも」)定説なんでしょうが、実力をもって定説をひっくり返すというのは構図としては愉快ですね。

しばらくネット環境から外れますので、次回の更新はおそらく木曜です。
そのための準備に手間取る様を百閒先生は見抜いておられる。

■■暮らし
□前日就寝:5時
□起床:10時30分
□朝食:コーンフレーク
□昼食:コロッケサンド、豆乳、ぱっくんちょ
ぱっくんちょはディズニーの版権を豊富に使っている関係からか明らかにライバルと比べて価格対量が違いました。

君の言うことには反対だが君がそのことを言う権利はうんぬん、ほんとうの人格よりもそう思われたい人格うんぬん

 寛容な一心理学のために。
 他人に、たえず自分の欠点ばかりが気になるように仕向けるよりも、その本人が好ましいと思っているその通りの人間だと思いこませるようにしたほうが、より人助けになる。普通、だれでも自分の理想像に近づくように努力をしているものだ。このことは、教育学にも、史学にも、哲学にも、政治学にも適用できる。たとえば今日のわれわれは、二十世紀に及ぶキリスト教的理想像の結果である。二千年来、人間は、自分の屈辱的な姿を示さねばならぬ状態に陥っていた。その結果はごらんの通りだ。いずれにせよ、もし過去二十世紀のあいだ、古代の理想がその美しい人間の容姿とともに持続しえたとしたら、今日われわれは一体どのようになっていただろう?



 反抗。
 結局はぼくは自由を選んだ。なぜならたとえ正義が実現されぬにせよ、自由は、不正に対して抗議する力を守り、意思の疎通を守ってくれるからだ。沈黙の世界での正義は、沈黙する人びとの正義は、連携を打ちこわし、反抗を否定し、同意を取り戻させてしまう。しかも、このたびは、それも最も下劣な形でだ。この点にこそ、自由が少しずつ手に入れる価値の優位性が見てとれよう。けれども難しいのは、すでに言われたように、自由が同時に正義を必要欠くべからざるものとするという見解を決して失わぬことだ。もしそうしたことを仮定すれば、自由のためにしか決して死のうとしなかった人間たちの歴史のなかに、たとえその内容は大層違っていようと、唯一の恒久的な価値を据えるべき正義も存在するのだ。
 自由とは、たとえばぼくが容認している体制や世界のなかであっても、ぼくの考えていないことを擁護することができるということだ。それは反対者の道理を認めてやることでもある。


カミュ『反抗の論理 カミュの手帖2』高畠正明訳(新潮文庫)


■■暮らし
□起床:12時半くらい
□昼食:レタスのサンドイッチ、シチュー(つくり置き)、アイスコーヒー(昨日いれたのを冷蔵庫で冷ましたもの。なかなかおつ)
□夕食:レタスのサンドイッチ、シチュー、ゆでたまご
□明日の起床予定:10時