ところで、たとえば女性の初花を十二、三歳の上に選ぶというような贅沢は、昔の大名とか将軍とかでない限りは許されない。それに又、異性愛は広き門である。たとい理想的なベターハーフを穫ることはこの地上では絶望であるとにしても、ともかく相手は何処にでもいる。環境についての顧慮は不要だし、なお何人にも先刻了解ずみの事柄に属する。それに反して、少年愛はきわめて狭き門である。「教師や監督者の中に小児を性的に誘惑する者が非常に多いのは、その好機会が与えられているという理由だけによって説明される」フロイトが述べているように、ある境位に恵まれない限り、何とも手の打ち様のないものである。初めに挙げた絵巻物の人物が雲中高貴に属し、その手廻り品として有職故実の調度が見られるように、少年愛は経済的背景と教養とに多大のつながりを持っている。それは開化につれて、次第に市民間に伝播して行く。そうではあるが、宮廷とか僧院とか、武家とかを中心とする少年愛的雰囲気に身をおくのでなければ、此種の本能は呼び醒まされない。少年愛に目ざめるためには特権階級に身を置く必要があった。
さらに又、あらゆる女性は潜在的には美女の資格がある。女はだれでも「女」に相違いないからだ。女性は模型自然だと云えるが、美景が滅多にないように美女も到って稀である。しかし庭木や鉢植が同じ模型自然に属している限り、別に素敵な美女でなくともわれわれを十分に愉しませてくれる。で、「まず差支えない」と云うことになる。少年ではそういう具合に行かない。先方が別に待機しているわけでなく、実に根気の要る開発であるからだ。それに少年愛を「美道」とも呼ぶように、相手は「美少年」でなければならない。美少年とはこの場合、「他者の裡に再発見したナルシシズム的対象のことだ」と云っておこう。それにしても、少年らはその総てが美少年なのでは決してない。
稲垣足穂『増補改訂 少年愛の美学』(角川文庫)
■■カラオケ
昨晩は、ゲイ的文化とカラオケと盛り上がりと大衆文化と異端と人気と無意識の愛好といろいろなことを勝手に示唆深く受け止めたカラオケでした。
新宿二丁目で受ければ日本中で受ける、この法則はジャニーズしかり、最近ではAKB48も証左になったそうな(そういう観点でAKBのブレイクを予見している文章をどこかで読みました。なんだっけな)。
浅いジェンダーの観点からすると、クイアは忌み嫌われるものとする暗なる前提のもと、それは人道的に悖る(これだと浅すぎるが例ということでご了承を)だろうという論調になりがちです。不勉強からかも知れないが私もそう感じる。
この暗なる前提の提示、というのが、やっかいで、ゲイのある側面を見失うことに繋がるのでは、という懸念を抱きました。実はみんな、同性愛をどこかで本当は愛しているのではないだろうか。そういった可能性も考慮しながら進める議論を放棄しているのではあるまいか。
ギリシア期の同性愛文化を知ること、と、21世紀日本の自分に引き寄せて考えることの違いについて、考えなくてはいけないのだ、と強く感じました。
■■暮らし
□前日就寝:?
□起床:?
□朝食:マクドナルドでホットコーヒー
□昼食:カジュアル中華で餃子、エビチリ、チャーハン、杏仁豆腐、バンバンジー、青菜の塩炒め
□夕食:ゆでたまご、チーズ、ピノ
そろそろ更新しろや!
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