わたしのゼミで、河下水希『いちご100%』について考える上で、重要かと思われる観点について話し合った。
(0)はじまり
「『いちご100%』の作者は河下水希である」という言明があったとしよう。
事実だとされているが、この現実世界においてこの言明が正しいかどうか、ということは問題にしない。「世界中には同姓同名、偽物など河下水希さんは複数名いますよ~」というような疑問も、それはそれで正しいのだが、ここでは黙っていることにする。
むしろ、長期的な視点において問題にしたいのは、この言明が正しい、とされるのはどのような場合なのか、ということだ。そして、この言明と現実世界はどのように対応して、どのように食い合っているのか、を明らかにすることだ。
(1)かの有名な合成原理
文章というものは、それを構成している言葉の意味によって成り立っているものだ、と考えてみる。
これは、たとえば「犬が吠えた」という文章をとっても、それを成り立たせている(細かい区分の方法は別として、少なくとも構成はしている)、「犬」「が」「吠え」「た」のそれぞれの意味の集まりだ、と考えることは直観的には、うん、そうなんじゃないの、と感じさせる。
(2)合成原理の言い換え
上で述べた前提を、「意味が表される仕方には依存しない」、と書き換えてみる。つまりは、「どう言おうが同じものが指せる、言い換えは可能」「同じものを指すことができたのならば同じ意味をもつ文章」だとしようぜ、ということだ。
このこと単独では意味はわかるし、直観にも叶う。
だが、(1)の同義となっているかがよくわからない。わからないのでとりあえず次へ。
(3)ふしぎなことが起きる
(2)をふまえると、「『いちご100%』の作者は河下水希である」「河下水希は河下水希である」は、まったく同じ意味をもった文ということになる。
どういうわけか。どういう了見か。
(4)了見
『きまぐれ★オレンジロード』の作者、は、河下水希という漫画家である。もっと言えば、河下水希という名の現実の何かと対応している。ちょっと待て。では、そこのところをマルッと入れ替えても同じではないか。
A=AとA=Bは、等号を信じるのならば結局同じこと言っているでしょ、と同じことだ。A=BならB=Aだ、ゆえにA=Aと同じことを言っているのだ。
のようなことをフレーゲは主張しているのではないだろうか
と、ゲーデルは主張しているのではないだろうか
のようなことをわたしは授業でやっている。
サークルなど趣味活動のさらなる充実などにとどまらず、就職活動などの自己実現や、現代日本における社会貢献に役に立つこと請け合いである。
(0)の、もっともな疑問に対しては、以下のような構えをとることにする。構えというか予感みたいなものだけど。
(1)はおそらく心理学的見地による意見が必要だな。ばらばらのパーツがいくら集合したところでそれだけでは意味は持ちえず、われわれはそれら集合の全体として意味をとらえているのだ、という話があるし。
古代哲学は文献の都合上、孫引きありきという面白い分野らしいのだが(この話はもう少ししたらまたしたいです)、ここでもまた孫引き。あとすごくどうでもいいけど古代によくいる「偽○○」。「偽ヘルメス文書」とかの。よく知らんけど。それを英語ではps-ということにしびれた。いや発音知らんので響きというより汎用性に。これからいやなことがあったら、頭の中でps-を頭につけよう。うん。そうしよう。間違っているよね。うん。そうだよね。
No comments:
Post a Comment