寛容な一心理学のために。
他人に、たえず自分の欠点ばかりが気になるように仕向けるよりも、その本人が好ましいと思っているその通りの人間だと思いこませるようにしたほうが、より人助けになる。普通、だれでも自分の理想像に近づくように努力をしているものだ。このことは、教育学にも、史学にも、哲学にも、政治学にも適用できる。たとえば今日のわれわれは、二十世紀に及ぶキリスト教的理想像の結果である。二千年来、人間は、自分の屈辱的な姿を示さねばならぬ状態に陥っていた。その結果はごらんの通りだ。いずれにせよ、もし過去二十世紀のあいだ、古代の理想がその美しい人間の容姿とともに持続しえたとしたら、今日われわれは一体どのようになっていただろう?
反抗。
結局はぼくは自由を選んだ。なぜならたとえ正義が実現されぬにせよ、自由は、不正に対して抗議する力を守り、意思の疎通を守ってくれるからだ。沈黙の世界での正義は、沈黙する人びとの正義は、連携を打ちこわし、反抗を否定し、同意を取り戻させてしまう。しかも、このたびは、それも最も下劣な形でだ。この点にこそ、自由が少しずつ手に入れる価値の優位性が見てとれよう。けれども難しいのは、すでに言われたように、自由が同時に正義を必要欠くべからざるものとするという見解を決して失わぬことだ。もしそうしたことを仮定すれば、自由のためにしか決して死のうとしなかった人間たちの歴史のなかに、たとえその内容は大層違っていようと、唯一の恒久的な価値を据えるべき正義も存在するのだ。
自由とは、たとえばぼくが容認している体制や世界のなかであっても、ぼくの考えていないことを擁護することができるということだ。それは反対者の道理を認めてやることでもある。
カミュ『反抗の論理 カミュの手帖2』高畠正明訳(新潮文庫)
■■暮らし
□起床:12時半くらい
□昼食:レタスのサンドイッチ、シチュー(つくり置き)、アイスコーヒー(昨日いれたのを冷蔵庫で冷ましたもの。なかなかおつ)
□夕食:レタスのサンドイッチ、シチュー、ゆでたまご
□明日の起床予定:10時
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