Wednesday, November 30, 2011

カミングアウトを巡るフリーライティング

カミングアウトに関するフリー・ライティング
クイア理論講座を終えて(11月30日)


カミングアウトとはつまり、うしなわれた自己決定権をマジョリティから奪い返すこと、戦略のことである。それは何を置いても、戦略であることを忘れてはいけない。現象ではなく。同位におくことを目指し、通常規範が通常規範たる正道でもって、あるいは完全ではないにしても比較問題として、回復を志向するのではなく、不可視=存在しないというバークリ的形而上学から演繹された「主張しないことは死を意味する」というテーゼに駆り立てられ、遮二無二差異を主張し、社会の根本的改革を要求する。

クローゼットとは、ハルプリンの定義にならうと、「自分が何者であるのか」を知り、決定する力が常に自分以外の誰かに占有されている状態をさす。彼らをクローゼットに押し込める社会的強制の恩恵は、とどのつまり、「ストレートの、日々生活する上で、そのようなものたちの存在を認識〜思いを煩わせることもない平穏」という形で享受される。

秘密とは、すなわち性。近代西洋における、知識、真実、個人のアイデンティティといったものは、性によって定義された。秘密とはすなわち性。19世紀以降の西洋でセクシュアリティは権力によって抑圧されているのか、と問うたミシェル・フーコーは、むしろ西洋において性は権力によって再生産されてきた、という構図を見いだす。権力による分類、配置、そして管理。ここで、はじめて、性的現象の客体的観察なる営みを必要とする。
(飛躍として)単なる行為ではなく、そのような行為の背景にある欲望、そのような欲望を持つような人間、その仮想的集合としての種族。ここに、種族としての同性愛者が有史はじめて登場した。

秘密と開示:知をつくるのは誰か?コントロールするのは誰か?秘密とは性的秘密のことであり、知識とは性的知識のことである。個人を知ることは、その人の性的な秘密を知ることである。知ることは殆ど「知っていると言ってもよい」と自分に認める見なしなのだとすると…

クローゼット、矛盾した場としての。中にいることも外に出ることもできない、あり得ないほどに不可能な場としての、クローゼット。「情報の開示が禁止されると同時に要請される」支離滅裂な論理を押し付けられる。カミングアウトは遅すぎるか早すぎるかのどちらかでしかない。つまり、「そんなこと聞きたくなかった」か「なんでもっと早く言ってくれなかったの」か、ということだ。同性愛者であることそれ自体の政治および倫理的判断ではなしに、情報の開示にまつわる政治を、ここでは読み込むのが有益だろう。

民族アイデンティティとの比較から、性的アイデンティティのカミングアウトにまつわる困難をあぶり出す。
(1)開示したアイデンティティが疑われる。「一時の気の迷いだからカウンセリングを受けろ」などと返す事は不自然ではない。実は日本人じゃない、に対してDNA鑑定について問う人の有無は。
(2)ガラスのクローゼット、「すでにバレているが見えていない事にする」

カミングアウトとは、強制的異性愛という制度化された権力をともなう無知を、無知としてあきらかにすること。見えないものは存在しないもの、という理論を否定するのではなく、その理論に則って、存在を獲得すること。

カミングアウトの文脈から外れた使用、カミングアウトの濫用、単なる、「カム」「アウト」として、「出て」「来る」として扱うこと。
鼻が気に入らないだとか唄が苦手だとかいったコンプレックスの「告白」とは、区別されるべきか否か。その優越性を担保しているものは何か。


非常に言い訳がましいのが嫌ですが、フリーライティングです。講義録というかメモというか。

Sunday, November 13, 2011

麻美ゆまとRioと上野千鶴子とチェブラーシカとアニメイトと現代の想像力

女は生涯にいくつの女性性器を見るか?

上野千鶴子『女遊び』(学陽書房)より


Rioと麻美ゆまがお互いの女性性器を見せ合って「こういうの始めてだねー」とかいっている動画がmegapornあたりであったと記憶していてさっき探して見たが落ちてました。残念。楽しみにしていた人ごめんなさい。


上野千鶴子『女遊び』(学陽書房)をパラパラ眺めていたら、チェブラーシカの栞が挟まっている、と気づきました。かと思えば、それは、実は、アニメイト渋谷店(シアターNの下にあるのがそれだったはず)のレシートの裏でした。
下衆なことと知りつつも、内容を熟読してしまう。そしてここにも書いたりしてしまうのです。

どうやら、冬のAVまつり2011というキャンペーンが実施中で、「期間中、AV商品・ゲームソフト・CD-ROMをご予約・ご購入1000円ごとにフェアポイントレシートを1ポイント分差し上げます!」とのこと。割引ではなく「景品」なのが、ニーズの多様化/個別化が進むとされ、さらにその細分化の極北と目されるであろうオタク・カルチャーのその象徴的ショップにおいて、なんらかの収束が起きているのか?と、仮説を再検討する必要に迫られます。フェアポイントはちなみに8P!


エビヅカさんという先輩がいつかおっしゃっていた「図書館で手に取った本に手紙挟まってたら」妄想の威力高くて困っちゃうという文学少年少女たちは少なくないと想像するのだけれど、このレシートから始まる恋、あるかな。というわけで、上述『女遊び』は返しちゃってレシートだけ手元にあるので、再会する可能性、あるかな。同じ本を借り直す可能性より(本の内容もあって)、名前も性別も知らない僕の恋人は、他の系列本を借りる可能性のほうが高いので、みなさんの知恵を是非お借りしたい。何に挟めばいいでしょう?


チェブラーシカ&くまのがっこうと、上野千鶴子と、アニメイト渋谷店と、冬のAVまつり2011と、それから8000円越えのAV消費と、麻美ゆまと、Rioと、それを結ぶ線上には、一体、誰の書いた、どんな本があるというのでしょう。そういう想像力の現代です。

Tuesday, November 8, 2011

「惜しみなく愛は奪う」スターたち

 ご承知のように、最近、身を売ってスターになれるものならなってみたいわ、と口ばしって物議をかもしたひとがあったが、たいした自信だとわたしはおもった。さらにまた、そういう発言にたいして、身を売るよりも芸を売れ、といったようなお座なりの忠告を試みるひともあらわれたが、なんという俗物だろう、とわたしはせせら笑った。
 アルチストとは–––したがってまた映画スターとは、自分自身に、売れるかもしれないところの肉体を、売れるかもしれないところの芸も、きれいさっぱりもちあわせのないということを、骨身に徹して自覚している人間のことをさすのである。
 一言にしていえば、かれらは、かれら自身が完全なデクノボーだ、ということをちゃんと知っているのだ。身を売ったり、芸を売ったりしてスターの地位を買うとすれば、売り手のと書いてとのあいだには、立派に、「ギヴ・エンド・テーク」の関係が成立する。しかし、スターというのは、法則のためにではなく、例外のためにつくられた人間なのだ。したがってかれらはなんにも売らないで–––売りたくても売るものがないのだから、自然そういうことになるが、もっぱら、「テーク・エンド・テーク」の道を突進する。その心意気がかれらをスターにするのである。(中略)
 とにかく、映画スターに美男美女がなれるという伝説ほど、信じがたいものはない。かれらの容貌や風采は、客観的にみればいたって平凡なものだ。芸についていうならば、かえってたたきあげた芸の持ち主は、バイプレイヤーのほうに多いだろう。にもかかわらず、わたしなんかでも、映画スターに似ているといわれるとまんざらでもないような気がするのは、いったい、どういうわけだろう?
 (中略)
 つまり、映画スターとしての地位に、ながいあいだとどまっているような人物は、くりかえしていうが、かれら自身がロボットにすぎないということを、ハッキリと意識しているような連中だけだ。これは、よほど映画というものを愛していなければできることではない。したがって、「テーク・エンド・テーク」というかれらのモットーは、有島武郎にならって、本当は、「惜しみなく愛は奪う」と訳すべきかもしれない。



花田清輝「スタア意識について」より(岩波文庫『花田清輝評論集』所収)

Sunday, November 6, 2011

蛙は翻訳されるのか

蛇の草ずれが遠くへ消えていつた
耳によつてた血がわくわくからだを流れた

(ピンと後脚でけとばしたい!)

ウヒウヒ笑ひながら浮き上ると
午の陽が花火のやうに眼をふさいだ

–––どうりや これから
土筆部落へ
ヨタ話にでもでかけようか




銀座街頭に売物になつてゐるトタン箱にうづくまるガマの眼玉は僕から中学小学の修身教科書の全部を消滅させる。大学的徳性は笑はれる。
蛙達の眼に映る人間の顔、その二つの肉体的力量の比較に立脚して魂の啞然は果たしてどつちにあるか。

蛾を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。この定義は悪魔だ。蛙をみて人間に不信任状を出したいぼくはその故にのみかへるを憎む。

殺戮者「万物の霊長」は君達をたたきころしむしろ道ばたの遊びごととし、そしてそれは自然だ。君達は君達の互助を讃へよ。高らかにうたへ。

人情的なあらゆるものを蔑視する宇宙大無口。

かへるの性欲は相手の腹に穴をあける
かへるの意地つ張りは意志を笑ふ
かへるの夢は厖大無辺
眼玉は忍従と意志の縮図だ

そしてゲリゲといふかえるは蛇に食はれて死んで行くとき人間の言葉に翻訳したら恐らく次のやうな言葉を仲間に送つた。
    お友達や仲間の諸君 ぼくが殺されるのを悲しんで逃げろといつて下すつたのをありがたう。ぼくを殺すのは誰でもないぼくの意地です。悲しくはない。悲しいことはなぜ殺しあひがあるかといふことです。それも仕方ないでせう。僕たちだつて色んなものをたべます。自然の暴威は当たりまへです。悲しいのはそれではない、なぜおんなじ兄弟たちなかまたちが殺しあふのだといふことです。
    霊長の人間も人間同士で殺しあふではありませんか。
    諸君 ぼくたちは幸福です。ぼくたちは誰彼の差別なく助け合ひ歌ひあひます。これ以上のことがあるでせうか。それを思ふとぼくはうれしい。ぼくは死んでゆきます。悲しくはありません。さやうなら。万歳して下さい。

そしてにんげん諸君 蛙とにんげんとマンモス、にんげんの声がマンモスの声より小さいだらうといつて、蛙のコーラスがにんげんのそれよりけちくさくしみつたれだと言ひ得るとでも言ふのか。

ぼくは蛙なんぞ愛してゐない!



草野心平「晴天」(『第百階級』所収)

こういう東京を僕にもくれよ

「どうも西洋人は美しいですね」といった。
 三四郎は別段の答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、
「お互いは憐れだなあ」といい出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応の所だが、––––––あなたは東京が始めてなら、まだ富士山も見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵えたものじゃない」といってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「亡びるね」といった。––––––熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲ぐられる。わるくすると国賊取扱いにされる。三四郎は頭の中のどこの隅にもこういう思想を入れる余裕はないような空気の裡で生長した。だからことによると自分の年齢の若いのに乗じて、他を愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとくにやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでも落ちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こういった。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中の方が広いでしょう」といった。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分が非常に卑怯であったと悟った。


夏目漱石『三四郎』より

Friday, November 4, 2011

ここ数日のこと


■一昨日のこと
新木場に行きました。
誘ってくださった先輩と結局会えなかったのですが、どうやらトイレの脇でゴミ袋と闘っているのを横目にしながら「まさかアレな訳ないよなあ、でも近くでまじまじと見るのもアレだしなあ」とスルーしていたのがおそらく先輩でした。
駐車場に叩き出されていたらしい先輩を「携帯電話が切れた」というもっともらしいアクシデントで救いに行けず、ぼくは、築地で海鮮丼を食べました。
芝浦から埋め立て地に入る「ぐるり」となっているところは、近未来って感じがして勢いづきました。なんかサイバーなのはコンピュータよりになりすぎて、ぼくはどちらかというと道路とかそういうのに興奮する性質なので、どうか才能あるエンジニア?クリーター?の卵のみなさんは破竹の勢いのITばかりでなく国土交通省あたりも進路の候補に入れてください。

■昨日のこと
特に何もせずに、手紙を書きました。おいしいものをたくさん食べました。塩風呂に長く入りました。ずっとお風呂&トイレで読んでいた『ガリヴァー旅行記』が残念なことに終わってしまったので、次は『カラマーゾフの兄弟』にしました。ベル・アンド・セバスチャンを聞きました。

■今日のこと
■ファッションとして装備する文学について
■映画館で眠ることについて
■トワイライトについて
■作者のナイーヴさ
今日はとてもよい天気だったので、陸を走る電車に乗りたいと思いました。
早稲田松竹にタルコフスキー「惑星ソラリス」を観に行きました。前日寝ていないので案の定途中で寝ました。
ぼくは、うとうとしながら、映画を観ました。ぼくは、自分が損をしたと思わないような理屈をこね始めました。教養課程の映画の授業、ある映画を一通り見せたあとに新入生に「何が見えたか」と尋ねる。すると哀れな新入生は「こうこうこういうドラマです」「こういう心情です」と筋書きや心情を教育国語の作法にのっとって答える。すると講師「そんなことをきいているんじゃない。『画面に何が映っていたのか』をきいているんだ」、つまり画面の中の構図や色彩についてきいたんだ、えええ筋書きじゃないの映画ってえええ、と衝撃を受けた、みたいな(すごく大雑把)話をききました。
そこから少しズレますが、ぼくは、長編小説について同じことを思いました。長編小説を「読み切る」っていうけれども、「具体的なエピソードとかってすぐ忘れちゃうんだよね」が結構本腰入れて夢中になって読んだ本でもあり得る(だってハリーポッターの諸エピソードとか人から急に話をふられても覚えてない)ことから、菊池寛が後生抱え続けた「筋」なるものは、文学談義の共通見解としても、もしかしたら信用できない。何も考えずにページを繰り文字を追うだけで「筋をわかっていない」ことと、行間まで読み込む勢いで6時から9時のコアタイムを利用して和室で正座して読んで「とてもよく読んだ」こと。この二つは決して比較ができない、ということです。読んだつもりの読み落としという存在が無限に認められる以上。
眼の活動の復旧とフィルムの古さに起因するブレとが重なったり、うつらうつらも佳境をむかえた後半は、止め絵偏差値の高い断片を「文脈もわからず」見続けることなどはなかなかに映画館らしい体験だったのではないか、というあたりで落ちをつけることができました。

そのあと、つづく「鏡」は諦めて、講読の授業を受けに戻りました。戻った次の次くらいで訳の当番が回ってきました。ついているのだと思います。

そのあと、恵比寿の写真美術館に行きました。トワイライトなんちゃらとかいうので、木曜日金曜日の5時半以降に入るとスタンプがもらえて、6つたまると招待券なのです。「写真新世紀展」などは入場無料なのでつまりは無限ループが可能なのです。しかもうちからバイクで10分もかからないし駐輪場は最初のどれだけかは無料です。というわけで来週も行こう。
見たのは、時間の関係もあって無料の「写真新世紀展」だけです。

ちなみに肝心の内容ですが、メモ程度にとどめておきます。
「印象とかイメージとか、お前ら何百年前から進歩してねーな」
作者がそれぞれ書いている制作意図がナイーヴすぎるのと感じるのはなぜでしょう。きみの頭の中のイメージとか見せられても、心底どうでもいい。「イメージを写真という実際に写した時点で『改変』されること」の意識が希薄なのか、もしくはそんなものは写真界では常識でもはやクリシェなのか。
クリシェだとしても、その意識をふまえた上でもあえてイメージとやらを絞り出しているようにしか見えないというところに鑑賞者を追い込む負け犬的方法の工夫や、改変そのものにイメージを重ねあわせるような変態を写真に教え込むことなどの意識がないので「またどこかできいたことのあるような」ばかりでした。評論家と作家を二分割するようなことを言う人がよくいますが、それは表象言語の違いとしては認めるにしても、考え
具体的なセンテンスを引かないと卑怯なんだが、それでも、お気楽だなー闘ってないなーと思いました。

椹木セレクションはなかなか面白かったです。HIROMIXの「終わったコンテンツ」感が漂っていましたが、しかし昨今の女子カメラは彼女が先鞭を打ちましたことには変わりないのでもはや写真史上の人物ですね。ホルガとかはともかく、女子カメラはエントリー用デジタル一眼がメイン?になりつつあるのは、一眼レフの道具としての使い勝手の良さなのかマーケティングなのか。
グッドマン『世界制作の方法』、せっかく買い直したのだから読もうと思いました。(しかし、買い直した奴は読まないというジンクスがある、バタイユ『エロティシズム』とか)
畠山直哉を見に、もう一度は行くはずだから、また併せて書こうかと思います。
黒沢清についても。あと上映会も。

■明日のこと
「平服で構いません」を罠だと感じ取ってしまうような疑心暗鬼の関係を打破したいと思いました。

Thursday, November 3, 2011

今日とは関わりを特には持たないとして

 波子の眼は、宇品の宿舎にいた頃から烈しく痛み出したという。尚よく聞いてみると、神戸を出て宇品へ行く汽車の中で、眼が痛むという友達にハンカチを貸したという。
 私は、夜中であったが直ぐ親戚の眼医者に電話をかけた。そして明日にしますという波子を無理にその眼医者に連れて行ったが、私の想像通り、急性淋毒性結膜炎で、徹夜で二時間毎に薬を挿さねば失明するかも知れないという事であった。
 私は波子を私の部屋に連れて来て、言われた通りの手当をして夜を明かしたが、彼女の眼は、全く濃い膿汁の中に沈んでいた。
 私が徹夜で看病したのは、彼女が嘗て白泉の「青豆蝦仁」を掃除してくれたからなのか。それだけの理由からなのか。
 疲れてウトウトしている波子は、私が二時間毎にゆり起こして眼薬を挿すたびに、かまわないでほしいと言った。かまわないでいれば、君の眼は明日の朝までにつぶれてしまうと医者が言ったではないかと言うと、「恩を受けたくないのです」とつぶやいた。
 この言葉はひどく私を驚かせた。私に賤しい下心が無いとは言い切れないが、それよりも、今一眼を失うか助かるかの瀬戸ぎわで、男の親切が自分の苦労の種になるかも知れないという、その本能的な保身と、たとえ眼がつぶれても男とのトラブルから逃げたいという経験とに驚いたのである。


西東三鬼「神戸」より
『神戸・続神戸・俳愚伝』(出帆社)所収



「しゅっぱんしゃ」っていうギャグなのか。
贈り物に今さら後悔をするくらいにいい本だけれど、いい本だからこそ手元に置いておきたいとも思うのです。本棚を共有することを結婚とするならば、まあ現状いい線は行っているのではないか、だけれども弛まず努力しなければいけない、と思うと、僕も日銭を稼ぐ必要を感じます。いや、本棚は分けるべきか、預金口座と同じように。この本は良かれ悪かれ、呪いです。

Wednesday, November 2, 2011

教養の大切さを教養なしに語るには


 一方でそれはガマガエルをふみつぶす楽しみでもあり、人を差別して見下して踏みにじっていじめる楽しみでもあり、強姦魔や連続殺人鬼のよろこびでもある。ぼくは知らないけれど、自分の信念の命ずるままに、サリンを撒いてカーフィルどもを虫けらのように殺したり、小学生の頭を切り落としたりするのも、すごいおもしろさがあったんだろう。いずれかれらにはそれをきちんと語ってほしいなと思う。その記述はたぶん「我が子を失った親の悲しみ」なんていう紋切り型をはるかに上回るパワーを持つだろう。だってかれらがそのとき感じていた「おもしろさ」のおかげで何をしでかしたか考えてみるといい。ふつうの人がいくら金をつまれてもやらないようなことを、ボランティアでやらせてしまうだけのおもしろさというのは何なのか。きちんとそれを記述すれば、必ずそれは伝染して追随者を生むにちがいない。

「心ときめくミームたちを求めて」より



 蓮實重彦の文は、とてもつらい立場におかれていて、かれが言おうとしていることを普通のことばで言おうとすると、どうしても「人間、結果はどうあれ努力が大事です」とか「やはり結果を出さないとだめです」とか「出会いを大切にしましょう」とか、そういう鼻くそみたいなお説教になってしまう。それはウソではなくて、一面の真実を持っているんだけれど、どっかできいたお説教だと思われた瞬間に、そのことばはもう頭の芯には届かずにバイパスされてしまう。しかもこういうのには、一面の真実のほかに実はいろいろただし書きがついている。たとえば努力は大事だけど、世の中には無駄で無意味な努力もあって、その努力を輝かせるにはある種の結果出しがどうしても必要なんだ、とか。
 だから蓮實は、「例の」お説教だと思われないように、様子をうかがうような文章をつむいでいくんだ。そして予想外の方向からせめて、なんとかみんなの頭の芯にたどりつこうとする。同時に、お説教からはばっさり切り捨てられるいろんな注意書きやただし書きも温存しようとする。

「手っ取り早い結論は諸悪の根源である」より


以上、山形浩生『新教養主義宣言』(晶文社)所収

 前置きをしなくとも経済書で脱構築といえば冗長かつ何でもアリな文芸批評のことね〜、とネタとして使えるような、共通言語としての教養を求めるこの本自身が、教養を必要としているとまではいかなくともそれへの渇望が露となった文章で書かれているこういう見取り図だよ、わたしが問題にしているのは。