村上 (略)逆説だけど、自分にセンスがない人は、自分にセンスがないという事実を認めるセンスがないということです。
あともうひとつ僕が言いたいのは、非常に不思議なことで、僕もまだ自分のなかでよく説明できないんですけど、「自分がかけがえのある人間かどうか」という命題があるわけです。たとえば、皆さんが学校を出て三菱商事に入って、南米からエビの輸入をする仕事をするとします。それで非常に一生懸命にやるんだけども、じゃあ、かけがえがないかというと、かけがえはあるんですよね。もし病気で長期療養したら、別な人がそのエビの取引の位置について、一生懸命あなたの代わりにやるわけです。それで三菱商事が、たとえば皆さんが二年間病気になって困るかというと、困らないわけです。というのは別の人を連れてきて同じ仕事をやらせるわけだから。だから、あなたほどうまくやれないかもしれないけれど、三菱商事が困るほどのことはないですね。
ということは、いくら一生懸命やってもかけがえは
あるわけですよね。というのは、逆に言えば、会社はかけがえのない人に来られると困っちゃうわけです。誰かが急にいなくなって、それで三菱商事が潰れちゃうと大変だから。その対極にあるのが小説家なわけです。ところが小説家に、たとえば僕にかけがえがないかというと、かけがえは
あるんです。というのは僕が今ここで死んじゃって、日本の文学界が明日から大混乱をきたすかというと、そんなことはないんです、なしでやっていくんですよ。だから全く逆の意味だけど、かけがえがないというわけではない。
質問者F 日本の作家の方で、日本語の大辞典を何冊も潰すほど日本語を生み出すのに苦労なさっている方がいるということを、何かで読んだことがあるんですけれども、今度は逆に日本語にする段階でご苦労な点は何なのか。
あと、私は翻訳の勉強を始めたばかりなんですけれども、日本語を磨けとよく言われまして、意図的にそのへんの努力をなさっていることとかがありましたら聞かせていただきたいんですけれども。
柴田 まずですね、その、日本語を磨きましょうという言い方をよく目にするんですけど、どうも何か違和感があるんですね、僕は。何でなのかなあ、所詮自分の使える日本語しか上手く文章にはのらないということを痛感するんです。
たとえば、文章を練る上で類義語辞典というのは必須なわけですね、よく使うわけです。それで、このAという言葉ではしっくりこないから何かないかなと思って辞書使いますよね。そうするとBという類義語があって、これは自分ではあまり使わない言葉だけど、おーいいじゃないといって使うでしょう。それで次の日に読み直してみると、やっぱりそこだけ浮いているということがものすごく多いんです。
だから結局、自分にしっくりくる言葉には限りがあって、それを活用するしかないなというふうに思うことが多いです。だからもちろん、自分に使える言葉を豊かにするために、いわゆる日本語を磨く、いい文章をたくさん読むというのは、原理的には大事だと思うんですけれども、そうやっていわば下心をもって、いわゆる美しい日本語を読むことを自分に強いても、そう上手く自分のなかには染み込まないんじゃないかと思うんです。というか、そう思いたい。
あとね、何で僕がそういう磨くとか鍛えるとかいう考え方がいやかというと、僕にとって翻訳は遊びなんですよ。
村上 ははは。
柴田 違います?
村上 いや、そうです。そのとおりです。
柴田 そうですよね。だから、仕事じゃないからそんな苦労はしたくないし(笑)、ええっと、いや、みなさん笑うけれどこれ真面目に言っているんですよ(笑)。あのう、ええっと、なんというんだろう、要するに、日本語筋力トレーニングみたいな感じでね、好きでもないのにこれは美しい文章なんだからって自分に無理強いするみたいなことはしたくないんですよ。
そもそも何が美しい文章かっていうことの基準なんてものはないし、べつに日本文学に限らず英米文学でも、美文の基準みたいな者が会って、それに則って書くのが正しい作法だみたいなことは現代の場合全くないわけですよね。だから、いわゆる美しい日本語といわれるものが仮に身につくとしても、それは単に、ある特定のトーンの日本語を身につけるだけのことだと思う。
村上春樹、柴田元幸『翻訳夜話』(文春新書)より、適宜改行
しかし傍点も打てないとは。