Wednesday, March 23, 2011

しばらく休みます

全国約15人(推定)の読者の皆様

こんにちは。
所用により、ネット環境を脱出しなくてはいけないので更新を休みます。
次回は、4月6日の予定です。
その日からはもりもり書きますのでどうぞよろしくお願いします。

Tuesday, March 22, 2011

絵心を理解する

実際のところは、絵が解るとか解らないとかいう言葉が、現代の心理学的表現なのである。見る者も絵が解ったり解らなかったりしているばかりでなく、画家も解ったり解らなかったりするような絵を努めて描いている。言わばお互に、絵はただ見るものだという事の忘れ合いをしている様なものだ。絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないかが問題だ。私も現代人であるから敢えて言うが、絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るものでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ。現代日本という文化国家は、文化を断じ乍ら、こういう寡黙な認識を全く侮蔑している。そしてそれに気附いていない。二科展の諸君は、この文化的侮蔑によって、実は上野の一角に追い詰められているのだが、それに気附いているのであろうか。肉眼と物体とを失ったヴィジョンは、絵ではない、文化談である。


小林秀雄「偶像崇拝」

Monday, March 21, 2011

ロリコンとはもう二度と呼ぶな

 さて今から、次のような理論を紹介したい。九歳から十四歳までの範囲で、その二倍も何倍も年上の魅せられた旅人に対してのみ、人間でなくニンフの(すなわち悪魔の)本性を現すような乙女が発生する。そしてこの選ばれた生物を、「ニンフェット」と呼ぶことを私は提案したいのである。
 ここでわたしが空間用語を時間用語で置き換えていることに、読者はお気づきになるだろう。実のところ、「九歳」や「十四歳」というのは嶋の境界線として思い浮かべていただきたい。鏡のような浅瀬と薔薇色の岩場がある魔法の島で、そこには我がニンフェットたちが棲息し、霧深い大海に囲まれている。その年齢の範囲内なら、どんな女の子でもニンフェットだろうか?もちろん、答えは否。そうでなければ、我々事情通、我々孤独な航海者、我々ニンフェット狂いは、とうの昔に気がおかしくなっているだろう。見目麗しさも判断基準にはならない。そして下品さというか、少なくとも社会がそう名付けるものも、ある種の不可思議な特徴を必ずしも損なうとは限らない。この世のものとは思えぬ優雅さ、つかみどころがなく、変幻自在で、魂を粉砕してしまうほどの邪悪な魅力、それこそが、たとえ年齢が同じでもニンフェットとそうでない者を分かつのであり、そうでない者は比較にならないほど一回限りの現象である空間世界に依存しているのに対して、ロリータとその同類たちは手で触れることのできない魅せられた時間の島で遊ぶのである。この同じ年齢範囲で、真のニンフェットの数は、目下のところ十人並みとか、単にいい子といか、「キュート」だったり、たとえ「かわいい」とか「魅力的」であろうが、ごく普通で、ぽっちゃりして、不恰好で、冷たい肌で、本質的には人間にすぎない少女たち、お腹がふっくらして、おさげが身で、大人になれば凄い美人になる者もいればそうでない者もいる(あの黒いストッキングに白い帽子姿のずんぐりむっくりした少女たちが、スクリーンの素敵なスターへと変身するのをご覧いただきたい)、そうした少女たちの数よりも圧倒的に少ない。女子生徒かガールスカウトの集合写真を渡されて、その中で誰がいちばん美人かと言われたら、正常な男性は必ずニンフェットを選ぶかというとそうともかぎらない。芸術家にして狂人、際限ないメランコリーの持ち主、下腹部には熱い毒が煮えたぎり、繊細な背骨にはとびきり淫猥な炎が永遠に燃えている(ああ、身をすくめて隠れていないと!)、そんな人間のみが、かすかに猫に似た頬骨の輪郭や、生毛のはえたすらりとした手足や、絶望と恥辱とやさしさの泪のせいでここに列挙することもかなわぬその他の指標といった、消しようのないしるしを手がかりにして、ただちに識別することができるのだ––––健全な子供たちの中に紛れ込んだ、命取りの悪魔を。彼女はみんなから悟られずに立っていて、自分が途方もない力を持っているとは夢にも思っていない。



ナボコフ『ロリータ』若島正:訳/新潮文庫
「ニンフェット狂い」が、正しく限定された呼称としたい。

Saturday, March 19, 2011

図書館と大学は避難場所として

今日は図書館なるところに行ってきました。
地域の図書館です。ビデオが3本まで借りられます。洋画は100本前後だと思うのだが、その中にコーエン兄弟「ファーゴ」、ジョン・ウォーターズ「シリアル・ママ」がありました。文学はともかくとして映像でこの手の作品が置かれるというのは、撲殺天使ドクロちゃんを公費で買うこととの辻褄合わせなのだと思えば、身震いもします。

いつもだったら、「月10万のカルチャーセンター」ともいえる私立大学文系学部に通う私は、大学の図書館を有効に活用します。しかし、緊急事態、来週まで臨時休館だそうです。
大学が社会とは独立した論理で動く逃げ場所(アジール)だとするならば、大学が来週まで図書館を開けないのは一体どういった理屈によるものなのでしょうか。それとも、とうの昔に、世の中に追随することに専念しているのでしょうか。あるいは、本の整理や安全確認など実務によるもなのでしょうか。

4月いっぱい休講を決めた某大学は、自らの位置づけを再びどこに置こうとしているのか。依拠するものは何かを示すことがあるのでしょうか。

Thursday, March 17, 2011

具体の科学

どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に支配されていると思い込む過ちを犯すとき、われわれは、野蛮人のほうも同じ批判をわれわれに向けていることや、また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方がわれわれの知識欲より均衡のとれたものだと思われていることに注意をしていない。



ユベールとモースの言うごとく、呪術的思考とは「因果律の主題による巨大な変奏曲」なのであって、それが科学と異なる点は、因果律についての無知ないしはその軽視ではなく、むしろ逆に、呪術的思考において因果性追求の欲求がより激しく強硬なことであって、科学の方からは、せいぜいそれを行きすぎとか性急と呼びうるにすぎないのではなかろうか?



(略)呪術と科学の第一の相違点はつぎのようなものになろう。すなわち、呪術が包括的かつ全面的な因果性を公準とするのに対し、科学の方は、まずいろいろなレベルを区別した上で、そのうちの若干に限ってのみ因果性のなにがしかの形式が成り立つことを認めるが、ほかに同じ形式が通用しないレベルもあるとするのである。しかしながら、さらに一歩考えを進めて、つぎのように考えることはできないだろうか?すなわち、呪術的思考や儀礼が厳格で緻密なのは、科学的現象の存在様式としての因果性の真実を無意識に把握していることのあらわれであり、したがって、因果性を認識しそれを尊重するより前に、包括的にそれに感づき、かつてそれを演技しているのではないだろうか?そうなれば、呪術の儀礼や信仰はそのまま、やがて生まれ来るべき科学に対する信頼の表現ということになるであろう。



だからといってわれわれは、呪術を科学の片言とする俗説(もっとも、それが位置する狭い展望の範囲では容認しうるものであるが)に戻るつもりはない。なぜならば、呪術を技術や科学の発達の一時期、一段階にしてしまうと、呪術的思考を理解する手段をすべて投擲することになるからである。呪術は本体に先立つ影のようなものであって、ある意味では本体と同様にすべてがととのい、実質はなくても、すぐあとにくる実物と同じほどに完成され、まとまったものである。呪術的思考は、まだ実現していない一つの全体の発端、冒頭、下書、ないし部分ではない。それ自体で諸要素をまとめた一つの体系を構成しており、したがって、科学という別の体系とは独立している。この両者が似ているのはただ形の類似だけであって、それによって呪術は科学の隠喩的表現とでも言うべきものになる。それゆえ、呪術と科学を対立させるのでなく、この両者を認識の二様式として並置するの方がよいだろう。それらは、理論的にも実際的にも成績については同等ではない(呪術もときには成功するので、その意味で科学を先取りしてはいるけれども、成績という点では科学が呪術より良い成績をあげることは事実であるから)。しかしながら、両者が前提とする知的操作の種類に関しては相違がない。知的操作の性質自体が異なるのではなくて、それが適用される現象のタイプに応じてかわるのである。


第一科学、呪術的思考、具体の科学
因果律への要望
器用仕事/もちあわせ/有限から無限


クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房

Wednesday, March 16, 2011

イマジン3

「キリング・フィールド」観ました。
音楽が非常に巧みな映画だと感じました。「どんなリアルな戦争映画でも、匂いだけは表現できない」とどこかで読んだ記憶がありますが、戦場にはフレームはなければ音楽も流れていないはずなのでリアルではないにしても臨場感を出す装置の一つとして、特にこの映画では音楽がよい効果をあげています。
不穏からの平穏への回帰が「イマジン」などポップス、オペラ、オーケストラなど西洋古典音階への回帰になっていたのは見逃せないポイントです。
ところで、ハラハラするシーンのあれは何というジャンルなんだろう。


政治情勢や描きかたの是非などはともかくとして、日本でこの手の「戦争の中の国境を越えた友情」系は作られないのには何かの圧力があるのだろうなあ、と想像しました。アメリカに先を越されるのは何かなあ、真珠湾攻撃とかもさ。少なくともアカデミー総なめにするくらいの傑作を、日米合作で完成させたときが、法律や経済だけでなく文化や情報の生活を生きるわたしたちにおける緊張の終結なのかもしれません。納得するエンディングがどのような形で存在するのでしょうか。


ウィキペディアによると、馬渕直城という、ポル=ポトの死にも立ち会ったという戦場カメラマンが、実際のシャンバーグ(アメリカ人記者)はディス・プロン(現地新聞記者、通訳や移動などシャンバーグをサポートする役回り)を人前で罵倒し突き飛ばす人間であった、という観察から「友情は無かった」と結論づけています。しかし、映画は、物語序盤「無理とか言うな。泣き言言うな。どうやったら現地に行けるかを考えろ。やれ」と無茶なことばかり言う我が儘横暴なアメリカ人記者像からスタートし、それが死線をくぐり抜け徐々によい関係になっていく過程やその後を描いています。本当にそんな友情が発生したかどうかは別として、かなりの時間を彼らと過ごしたとは思えない馬淵が知り得ない「いじわる白人のその先」を映画は描いているのであって、馬淵の批判はむしろ「見たことがある、くらいですべて知っていると思うのか。浅はかなやつだ」と反転します。


人間は経験を過剰に一般化しやすい。危険な体験を崇めやすい。
「見たこと以外は信じない」は別に結構だが、その裏に量化子ぶちこんだものも真、つまり「(少しでも)見たから(すべて)信じる」も正しいと思うのはお粗末なものです。

Tuesday, March 15, 2011

キャンプ=大衆文化時代のダンディズム

わたしはキャンプに強く惹かれ、またそれに劣らぬ程強く反撥を感じている。だからこそ、わたしはそれについて語りたいと思うのであり、また語ることができるのだ。なぜならば、ある感覚に心からとけ込んでいるようなひとには、それを分析することなどできないからだ。そういうひとには、意図はどうあれ、その感覚を見せびらかすことしかできない。ある感覚に名をつけ、その輪郭を描いたり歴史を辿ったりするには、反撥によって制約された深い共感が必要なのである。


趣味能力を甘く見ることは、つまり自己を甘く見ることである。なぜならば、趣味は人間の自由な–––つまり機械的でない–––反応のすべてを支配しているからだ。


「人間を善いのと悪いのに分けるなんて、馬鹿げています。人間は魅力があるか退屈かですよ」 『ウィンダミア卿夫人の扇』



スーザン・ソンタグ「キャンプについてのノート」/『反解釈』(竹内書店)所収

Monday, March 14, 2011

凄みを増すスパム

どんなチェーンメールが来たか、の話をしました。
いつもと変わらないはずの、逆援助ってなんておいしいんだ!風俗や出会いに金を出すなんてばからしい!出会い系スパムにすら、節電を求める前文がついていたそうです。逆援で今月70万稼いでます、単位がジンバブエドルのようにスーパーインフレ起こしていないはずの円であるのならば寄付しろ、と言いたいところです。とか言っていたら「逆援で稼いで募金しよう!」とかいう気の利いたスパムも開発されそうです。募金に貴賤は無いか。

文は、それ単体では読み得ない、コンテクストと読み併せているのだ、といいます。いつもと変わらぬ文面のスパムですら、未曾有の危機はやや強い文脈を与えます。

以下、実際にさっき(3/15午前1時18分)届いたメールから引用です。URLは省略しています。


タイトル:「神」探してます!
泊めてくれたらエッチ
くらいいいよ♪
マリコ
漫喫に泊まるお金も無
いよぉ。。。
メグ
書き込み
○すべてが無料○
だからゆっくり写メを
見ながら好みの子を探
せます。

「とりあえず晩御飯
おごるよ」

これで大抵の神待ち少
女は会えます!
あとはお持ち帰りも
どこかに泊まるのも
カンタン!

引用以上

Sunday, March 13, 2011

イマジン2

(略)想像力という言葉はつねに様ざまな、決して不確かとしりぞけることのできぬ、しかし結局は想像力の核心を射ていない疑いの声をひきおこす。想像力?それは現実の科学的な認識とは別の、それに加えての、ある人間の精神の働らきなのだ、という受けいれかたも、とくに想像力について好意的な科学者に見出されることがある。科学的な認識、それは肝要だ、しかしそれのみではならぬ、想像力がそこに上のせされなければならぬ、というふうに。
そのような想像力について寛大な受けいれかたをするタイプの科学者が、すべて実は想像力について本気で考えていないのだ、とはいうことができない。しかししばしば、このようなタイプの考え方の持主たちにおいては、想像力に対して大きい自由をあたえる者らほど、より多く想像力を本気で相手にしてはいない。子供の無邪気な遊びに寛大であればあるほど、実際には、その子供のやることを本気で問題にはしていない、という場合がしばしばであるように……
しかし想像力は、じつはストイックなほどにも現実の内奥に根をおろし、現実に縛られ、また究極において現実にむかうものでなければならぬである。科学的な認識ということにつきつけていえば、想像力はそのうちにくいこんでいなければならぬし、想像力的な現実認識の展開は、つねに科学的な認識によって裏打ちされつづけなければならないのである。


(略)想像力とは、そのように現実の状況とあい関わる(状況に根ざし、状況をこえる)人間の精神の機能である。


(略)状況の外にあってそこから状況にむかってなにごとかを語る、ということではなかった。この核時代にあって誰が状況の外にいることができるだろう。それでは、なぜ状況によって骨がらみにされながら、あるいは状況のぬかるみに膝まで没しながらしかも状況の遠い展望に目を向けることもできぬものが、状況へ、というのか?
そのようにいう僕にとって根本的な梯子の役割をはたしているのが想像力の機能に他ならない。われわれは状況のなかに行きている。しかもその状況の中心に一箇の人間である自分を於いて、あらたに状況をひきうける。主体的に状況をとらえなおす。その行為の動力源となるものこそが、想像力にほかならない。想像力によって状況を把握する態度そのものを、僕は状況への真の人間のありかたとみなすのである。そのようにして、あらためて一箇の人間としてどう生きるのかという意志を決定することを、状況への唯一の対処のしかたとみなすのである。



大江健三郎「想像力的日本人」より、断片的に引用。段落途中のみ引用した場合は(略)とつけた。(『状況へ』所収)

ピチカート・ファイブ

この、敢えて言えば「必要以上の熱狂」の出所ははっきりしています。ピチカートVの音楽は、現在では数えきれないほどのリリース量に達していますが、総ての曲に終始一貫したテーゼがあります。それは「どうせ世間は酷いニュースばかりなんだ。外は地獄だし地球もいつかは滅ぶかもしれない。だから、音楽が鳴っている間だけは最高にラヴリーでグルーヴィーに踊ろうよ」っていう、まるで60年代のグループサウンズの歌詞みたいな、しかしカントよりも堅牢な鋼鉄の哲学なのです。
この刹那的でディスコティックな美学、そして衣装の陶酔、そして甲高い意地悪な皮肉。この3点の融合に於いて、僕は、ピチカートVこそが、日本にほぼ唯一存在するゲイ・ミュージックだと思っています(小西さん自身はゲイではないと思います。それとこれとは関係ないのです)。ゲイ・ミュージック。中でもハウス・ミュージックは、被差別者による快楽の闘争という意味に於いてブルーズの子孫であり、肌の色による人種差別と違い、外的には峻別できない差異による、いわば「自己申告によって能動的にキャッチした被差別」という意味に於いて、20世紀ブルーズの最後の一形式なのかも知れません。


菊地成孔『スペインの宇宙食』より、「鰻のマトロット(香草と赤ワインでぶつ切りの鰻を煮込んだもの)」から抜粋

Friday, March 11, 2011

ねじ回しとスプーン

ねじを壁にねじこむのにスプーンを使うことは可能である。訓練によって、あなたはそれに熟練することもできるだろう。そして、また、スプーンを使った曲芸めいた芸当を習得することも可能である。さらに、スプーンの曲芸をしないひとたちを感動させたり、当惑させたりすることも可能である。そして、スプーンを「フォーク」と呼ぶことによって、すべてをより謎めいたものに仕立てることも可能であろう。で、このことに関する本を著し、フォークと呼ばれるスプーン曲芸をする他の人々を募って協会を設立することも可能である。そして、たとえその後であっても、そう、確かに、あなたはスプーンで壁にねじをねじこむことができるのである。
しかし、ねじ回しのほうがより良い。たとえ、いままでねじ回しを見たことがないとしても、それに似たようなものを発明することは可能であろう。ひとつの用途のスプーンが他の用途のスプーンとは同じでないにしても、おそらく似通ってくるのは確かである。それで、あなたは自分のスプーンをもつことができるようになるだろう。スープを飲むのに、曲芸をするために、そして、たまに、ねじを壁にねじ込むために。少なくとも、あなたがたよりよい道具をより上手に使いこなすまでは。


アルベルト・A・マルティネス『負の数学』青土社より

Thursday, March 10, 2011

カタカナ

坂口安吾を一日およそ一編ずつ読んでいます。
岩波、ちくま、新潮と色々なところから出ているので全体的に「白痴」過剰です(かぶってる)。


そこで、時々使われる、ほんの少しずれるカタカナが安吾の文章のいいフックとなっているのでは、と考えました。
エッちゃん、それだけはイヤ、ヒメ、など、逐一分析するのは面倒なので、高校3年時の担任(古典)の「いい響きですね」的省略で乗り切らせていただきます。読み始めは単なる「夜長姫」の短縮形であり狂っていない一般に想像するところの「姫」を指す「ヒメ」が、終盤には、青空のように規範を外れた人として「姫」を越すのです。そういう意味では、フックと言ったけれども、「あとで足に効く」ボディブロウの側面もあります。安吾はつくづくうまいなあ、と思います。


カタカナ以外に、時々、ローマ字を交える人もいますよね。今、パッとexampleが出せなくてもどかしいのですが、この文章のような感じです。LAやNYは百歩譲って、いちいち外国地名を現地文字で書いちゃうのもそうかな。
これはフックになるのか。
そもそもカタカナ問題と重なる部分があるのか。
多くの場合、わざわざアルファベットにする機能が認められないこと、そしてHJ(肥大した自意識)、さらにはそのHJにも気づかない鈍さ、が垣間みられ、ほんの少しの嫌悪を覚えます。