(略)想像力という言葉はつねに様ざまな、決して不確かとしりぞけることのできぬ、しかし結局は想像力の核心を射ていない疑いの声をひきおこす。想像力?それは現実の科学的な認識とは別の、それに加えての、ある人間の精神の働らきなのだ、という受けいれかたも、とくに想像力について好意的な科学者に見出されることがある。科学的な認識、それは肝要だ、しかしそれのみではならぬ、想像力がそこに上のせされなければならぬ、というふうに。
そのような想像力について寛大な受けいれかたをするタイプの科学者が、すべて実は想像力について本気で考えていないのだ、とはいうことができない。しかししばしば、このようなタイプの考え方の持主たちにおいては、想像力に対して大きい自由をあたえる者らほど、より多く想像力を本気で相手にしてはいない。子供の無邪気な遊びに寛大であればあるほど、実際には、その子供のやることを本気で問題にはしていない、という場合がしばしばであるように……。
しかし想像力は、じつはストイックなほどにも現実の内奥に根をおろし、現実に縛られ、また究極において現実にむかうものでなければならぬである。科学的な認識ということにつきつけていえば、想像力はそのうちにくいこんでいなければならぬし、想像力的な現実認識の展開は、つねに科学的な認識によって裏打ちされつづけなければならないのである。
(略)想像力とは、そのように現実の状況とあい関わる(状況に根ざし、状況をこえる)人間の精神の機能である。
(略)状況の外にあってそこから状況にむかってなにごとかを語る、ということではなかった。この核時代にあって誰が状況の外にいることができるだろう。それでは、なぜ状況によって骨がらみにされながら、あるいは状況のぬかるみに膝まで没しながらしかも状況の遠い展望に目を向けることもできぬものが、状況へ、というのか?
そのようにいう僕にとって根本的な梯子の役割をはたしているのが想像力の機能に他ならない。われわれは状況のなかに行きている。しかもその状況の中心に一箇の人間である自分を於いて、あらたに状況をひきうける。主体的に状況をとらえなおす。その行為の動力源となるものこそが、想像力にほかならない。想像力によって状況を把握する態度そのものを、僕は状況への真の人間のありかたとみなすのである。そのようにして、あらためて一箇の人間としてどう生きるのかという意志を決定することを、状況への唯一の対処のしかたとみなすのである。
大江健三郎「想像力的日本人」より、断片的に引用。段落途中のみ引用した場合は(略)とつけた。(『状況へ』所収)
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