実際のところは、絵が解るとか解らないとかいう言葉が、現代の心理学的表現なのである。見る者も絵が解ったり解らなかったりしているばかりでなく、画家も解ったり解らなかったりするような絵を努めて描いている。言わばお互に、絵はただ見るものだという事の忘れ合いをしている様なものだ。絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないかが問題だ。私も現代人であるから敢えて言うが、絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るものでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ。現代日本という文化国家は、文化を断じ乍ら、こういう寡黙な認識を全く侮蔑している。そしてそれに気附いていない。二科展の諸君は、この文化的侮蔑によって、実は上野の一角に追い詰められているのだが、それに気附いているのであろうか。肉眼と物体とを失ったヴィジョンは、絵ではない、文化談である。
小林秀雄「偶像崇拝」
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