Thursday, March 17, 2011

具体の科学

どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に支配されていると思い込む過ちを犯すとき、われわれは、野蛮人のほうも同じ批判をわれわれに向けていることや、また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方がわれわれの知識欲より均衡のとれたものだと思われていることに注意をしていない。



ユベールとモースの言うごとく、呪術的思考とは「因果律の主題による巨大な変奏曲」なのであって、それが科学と異なる点は、因果律についての無知ないしはその軽視ではなく、むしろ逆に、呪術的思考において因果性追求の欲求がより激しく強硬なことであって、科学の方からは、せいぜいそれを行きすぎとか性急と呼びうるにすぎないのではなかろうか?



(略)呪術と科学の第一の相違点はつぎのようなものになろう。すなわち、呪術が包括的かつ全面的な因果性を公準とするのに対し、科学の方は、まずいろいろなレベルを区別した上で、そのうちの若干に限ってのみ因果性のなにがしかの形式が成り立つことを認めるが、ほかに同じ形式が通用しないレベルもあるとするのである。しかしながら、さらに一歩考えを進めて、つぎのように考えることはできないだろうか?すなわち、呪術的思考や儀礼が厳格で緻密なのは、科学的現象の存在様式としての因果性の真実を無意識に把握していることのあらわれであり、したがって、因果性を認識しそれを尊重するより前に、包括的にそれに感づき、かつてそれを演技しているのではないだろうか?そうなれば、呪術の儀礼や信仰はそのまま、やがて生まれ来るべき科学に対する信頼の表現ということになるであろう。



だからといってわれわれは、呪術を科学の片言とする俗説(もっとも、それが位置する狭い展望の範囲では容認しうるものであるが)に戻るつもりはない。なぜならば、呪術を技術や科学の発達の一時期、一段階にしてしまうと、呪術的思考を理解する手段をすべて投擲することになるからである。呪術は本体に先立つ影のようなものであって、ある意味では本体と同様にすべてがととのい、実質はなくても、すぐあとにくる実物と同じほどに完成され、まとまったものである。呪術的思考は、まだ実現していない一つの全体の発端、冒頭、下書、ないし部分ではない。それ自体で諸要素をまとめた一つの体系を構成しており、したがって、科学という別の体系とは独立している。この両者が似ているのはただ形の類似だけであって、それによって呪術は科学の隠喩的表現とでも言うべきものになる。それゆえ、呪術と科学を対立させるのでなく、この両者を認識の二様式として並置するの方がよいだろう。それらは、理論的にも実際的にも成績については同等ではない(呪術もときには成功するので、その意味で科学を先取りしてはいるけれども、成績という点では科学が呪術より良い成績をあげることは事実であるから)。しかしながら、両者が前提とする知的操作の種類に関しては相違がない。知的操作の性質自体が異なるのではなくて、それが適用される現象のタイプに応じてかわるのである。


第一科学、呪術的思考、具体の科学
因果律への要望
器用仕事/もちあわせ/有限から無限


クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房

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