「キリング・フィールド」観ました。
音楽が非常に巧みな映画だと感じました。「どんなリアルな戦争映画でも、匂いだけは表現できない」とどこかで読んだ記憶がありますが、戦場にはフレームはなければ音楽も流れていないはずなのでリアルではないにしても臨場感を出す装置の一つとして、特にこの映画では音楽がよい効果をあげています。
不穏からの平穏への回帰が「イマジン」などポップス、オペラ、オーケストラなど西洋古典音階への回帰になっていたのは見逃せないポイントです。
ところで、ハラハラするシーンのあれは何というジャンルなんだろう。
政治情勢や描きかたの是非などはともかくとして、日本でこの手の「戦争の中の国境を越えた友情」系は作られないのには何かの圧力があるのだろうなあ、と想像しました。アメリカに先を越されるのは何かなあ、真珠湾攻撃とかもさ。少なくともアカデミー総なめにするくらいの傑作を、日米合作で完成させたときが、法律や経済だけでなく文化や情報の生活を生きるわたしたちにおける緊張の終結なのかもしれません。納得するエンディングがどのような形で存在するのでしょうか。
ウィキペディアによると、馬渕直城という、ポル=ポトの死にも立ち会ったという戦場カメラマンが、実際のシャンバーグ(アメリカ人記者)はディス・プロン(現地新聞記者、通訳や移動などシャンバーグをサポートする役回り)を人前で罵倒し突き飛ばす人間であった、という観察から「友情は無かった」と結論づけています。しかし、映画は、物語序盤「無理とか言うな。泣き言言うな。どうやったら現地に行けるかを考えろ。やれ」と無茶なことばかり言う我が儘横暴なアメリカ人記者像からスタートし、それが死線をくぐり抜け徐々によい関係になっていく過程やその後を描いています。本当にそんな友情が発生したかどうかは別として、かなりの時間を彼らと過ごしたとは思えない馬淵が知り得ない「いじわる白人のその先」を映画は描いているのであって、馬淵の批判はむしろ「見たことがある、くらいですべて知っていると思うのか。浅はかなやつだ」と反転します。
人間は経験を過剰に一般化しやすい。危険な体験を崇めやすい。
「見たこと以外は信じない」は別に結構だが、その裏に量化子ぶちこんだものも真、つまり「(少しでも)見たから(すべて)信じる」も正しいと思うのはお粗末なものです。
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