Saturday, December 3, 2011

物識り合戦

 結果として、理論は恐ろしげなものになる。今日の理論の特徴の中で人をいちばん愕然とさせるのは、理論にはきりがないということである。それはおよそマスターできる代物ではないし、「理論をしる」ために学べる特定のテクスト群があるわけでもない。それは、変化を求める若者たちが、年長者のしがみつく指導的概念を批判して、新しい思想家たちの理論を応援し、古い顧みられなかった思想家の著作を再発見するのにあわせてどんどんふくらんでゆく、限りのない著述のコーパスである。そのために理論は恐ろしげなものとなり、たえず自分を目立たせるための手段にもなる。「えっ?ラカンを読んでいないの!語る主体の鏡像的な構成を云々しないで、抒情詩について語るの?」とか、「フーコーの説明したセクシュアリティの援用とか、女の身体のヒステリー化とか、ガヤトリ・スピヴァックが宗主国的主体の構築におけるコロニアリズムの役割について論じているものとかを使わないで、ヴィクトリア朝の小説について書けるの?」とか。時には理論がなじみのない分野の難解な本を読むことを強制し、ひとつの課題が終わったかと思うと、ひと休みどころか、さらに難解な仕事を押しつけてくる悪魔の宣告となることもある(「スピヴァック?へえ、でもベニタ・パリーのスピヴァック批判と、スピヴァックからの返答を読んだ?」)。

ジョナサン・カラー『文学理論』(岩波書店、荒木映子・富山太佳夫訳)

Wednesday, November 30, 2011

カミングアウトを巡るフリーライティング

カミングアウトに関するフリー・ライティング
クイア理論講座を終えて(11月30日)


カミングアウトとはつまり、うしなわれた自己決定権をマジョリティから奪い返すこと、戦略のことである。それは何を置いても、戦略であることを忘れてはいけない。現象ではなく。同位におくことを目指し、通常規範が通常規範たる正道でもって、あるいは完全ではないにしても比較問題として、回復を志向するのではなく、不可視=存在しないというバークリ的形而上学から演繹された「主張しないことは死を意味する」というテーゼに駆り立てられ、遮二無二差異を主張し、社会の根本的改革を要求する。

クローゼットとは、ハルプリンの定義にならうと、「自分が何者であるのか」を知り、決定する力が常に自分以外の誰かに占有されている状態をさす。彼らをクローゼットに押し込める社会的強制の恩恵は、とどのつまり、「ストレートの、日々生活する上で、そのようなものたちの存在を認識〜思いを煩わせることもない平穏」という形で享受される。

秘密とは、すなわち性。近代西洋における、知識、真実、個人のアイデンティティといったものは、性によって定義された。秘密とはすなわち性。19世紀以降の西洋でセクシュアリティは権力によって抑圧されているのか、と問うたミシェル・フーコーは、むしろ西洋において性は権力によって再生産されてきた、という構図を見いだす。権力による分類、配置、そして管理。ここで、はじめて、性的現象の客体的観察なる営みを必要とする。
(飛躍として)単なる行為ではなく、そのような行為の背景にある欲望、そのような欲望を持つような人間、その仮想的集合としての種族。ここに、種族としての同性愛者が有史はじめて登場した。

秘密と開示:知をつくるのは誰か?コントロールするのは誰か?秘密とは性的秘密のことであり、知識とは性的知識のことである。個人を知ることは、その人の性的な秘密を知ることである。知ることは殆ど「知っていると言ってもよい」と自分に認める見なしなのだとすると…

クローゼット、矛盾した場としての。中にいることも外に出ることもできない、あり得ないほどに不可能な場としての、クローゼット。「情報の開示が禁止されると同時に要請される」支離滅裂な論理を押し付けられる。カミングアウトは遅すぎるか早すぎるかのどちらかでしかない。つまり、「そんなこと聞きたくなかった」か「なんでもっと早く言ってくれなかったの」か、ということだ。同性愛者であることそれ自体の政治および倫理的判断ではなしに、情報の開示にまつわる政治を、ここでは読み込むのが有益だろう。

民族アイデンティティとの比較から、性的アイデンティティのカミングアウトにまつわる困難をあぶり出す。
(1)開示したアイデンティティが疑われる。「一時の気の迷いだからカウンセリングを受けろ」などと返す事は不自然ではない。実は日本人じゃない、に対してDNA鑑定について問う人の有無は。
(2)ガラスのクローゼット、「すでにバレているが見えていない事にする」

カミングアウトとは、強制的異性愛という制度化された権力をともなう無知を、無知としてあきらかにすること。見えないものは存在しないもの、という理論を否定するのではなく、その理論に則って、存在を獲得すること。

カミングアウトの文脈から外れた使用、カミングアウトの濫用、単なる、「カム」「アウト」として、「出て」「来る」として扱うこと。
鼻が気に入らないだとか唄が苦手だとかいったコンプレックスの「告白」とは、区別されるべきか否か。その優越性を担保しているものは何か。


非常に言い訳がましいのが嫌ですが、フリーライティングです。講義録というかメモというか。

Sunday, November 13, 2011

麻美ゆまとRioと上野千鶴子とチェブラーシカとアニメイトと現代の想像力

女は生涯にいくつの女性性器を見るか?

上野千鶴子『女遊び』(学陽書房)より


Rioと麻美ゆまがお互いの女性性器を見せ合って「こういうの始めてだねー」とかいっている動画がmegapornあたりであったと記憶していてさっき探して見たが落ちてました。残念。楽しみにしていた人ごめんなさい。


上野千鶴子『女遊び』(学陽書房)をパラパラ眺めていたら、チェブラーシカの栞が挟まっている、と気づきました。かと思えば、それは、実は、アニメイト渋谷店(シアターNの下にあるのがそれだったはず)のレシートの裏でした。
下衆なことと知りつつも、内容を熟読してしまう。そしてここにも書いたりしてしまうのです。

どうやら、冬のAVまつり2011というキャンペーンが実施中で、「期間中、AV商品・ゲームソフト・CD-ROMをご予約・ご購入1000円ごとにフェアポイントレシートを1ポイント分差し上げます!」とのこと。割引ではなく「景品」なのが、ニーズの多様化/個別化が進むとされ、さらにその細分化の極北と目されるであろうオタク・カルチャーのその象徴的ショップにおいて、なんらかの収束が起きているのか?と、仮説を再検討する必要に迫られます。フェアポイントはちなみに8P!


エビヅカさんという先輩がいつかおっしゃっていた「図書館で手に取った本に手紙挟まってたら」妄想の威力高くて困っちゃうという文学少年少女たちは少なくないと想像するのだけれど、このレシートから始まる恋、あるかな。というわけで、上述『女遊び』は返しちゃってレシートだけ手元にあるので、再会する可能性、あるかな。同じ本を借り直す可能性より(本の内容もあって)、名前も性別も知らない僕の恋人は、他の系列本を借りる可能性のほうが高いので、みなさんの知恵を是非お借りしたい。何に挟めばいいでしょう?


チェブラーシカ&くまのがっこうと、上野千鶴子と、アニメイト渋谷店と、冬のAVまつり2011と、それから8000円越えのAV消費と、麻美ゆまと、Rioと、それを結ぶ線上には、一体、誰の書いた、どんな本があるというのでしょう。そういう想像力の現代です。

Tuesday, November 8, 2011

「惜しみなく愛は奪う」スターたち

 ご承知のように、最近、身を売ってスターになれるものならなってみたいわ、と口ばしって物議をかもしたひとがあったが、たいした自信だとわたしはおもった。さらにまた、そういう発言にたいして、身を売るよりも芸を売れ、といったようなお座なりの忠告を試みるひともあらわれたが、なんという俗物だろう、とわたしはせせら笑った。
 アルチストとは–––したがってまた映画スターとは、自分自身に、売れるかもしれないところの肉体を、売れるかもしれないところの芸も、きれいさっぱりもちあわせのないということを、骨身に徹して自覚している人間のことをさすのである。
 一言にしていえば、かれらは、かれら自身が完全なデクノボーだ、ということをちゃんと知っているのだ。身を売ったり、芸を売ったりしてスターの地位を買うとすれば、売り手のと書いてとのあいだには、立派に、「ギヴ・エンド・テーク」の関係が成立する。しかし、スターというのは、法則のためにではなく、例外のためにつくられた人間なのだ。したがってかれらはなんにも売らないで–––売りたくても売るものがないのだから、自然そういうことになるが、もっぱら、「テーク・エンド・テーク」の道を突進する。その心意気がかれらをスターにするのである。(中略)
 とにかく、映画スターに美男美女がなれるという伝説ほど、信じがたいものはない。かれらの容貌や風采は、客観的にみればいたって平凡なものだ。芸についていうならば、かえってたたきあげた芸の持ち主は、バイプレイヤーのほうに多いだろう。にもかかわらず、わたしなんかでも、映画スターに似ているといわれるとまんざらでもないような気がするのは、いったい、どういうわけだろう?
 (中略)
 つまり、映画スターとしての地位に、ながいあいだとどまっているような人物は、くりかえしていうが、かれら自身がロボットにすぎないということを、ハッキリと意識しているような連中だけだ。これは、よほど映画というものを愛していなければできることではない。したがって、「テーク・エンド・テーク」というかれらのモットーは、有島武郎にならって、本当は、「惜しみなく愛は奪う」と訳すべきかもしれない。



花田清輝「スタア意識について」より(岩波文庫『花田清輝評論集』所収)

Sunday, November 6, 2011

蛙は翻訳されるのか

蛇の草ずれが遠くへ消えていつた
耳によつてた血がわくわくからだを流れた

(ピンと後脚でけとばしたい!)

ウヒウヒ笑ひながら浮き上ると
午の陽が花火のやうに眼をふさいだ

–––どうりや これから
土筆部落へ
ヨタ話にでもでかけようか




銀座街頭に売物になつてゐるトタン箱にうづくまるガマの眼玉は僕から中学小学の修身教科書の全部を消滅させる。大学的徳性は笑はれる。
蛙達の眼に映る人間の顔、その二つの肉体的力量の比較に立脚して魂の啞然は果たしてどつちにあるか。

蛾を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。この定義は悪魔だ。蛙をみて人間に不信任状を出したいぼくはその故にのみかへるを憎む。

殺戮者「万物の霊長」は君達をたたきころしむしろ道ばたの遊びごととし、そしてそれは自然だ。君達は君達の互助を讃へよ。高らかにうたへ。

人情的なあらゆるものを蔑視する宇宙大無口。

かへるの性欲は相手の腹に穴をあける
かへるの意地つ張りは意志を笑ふ
かへるの夢は厖大無辺
眼玉は忍従と意志の縮図だ

そしてゲリゲといふかえるは蛇に食はれて死んで行くとき人間の言葉に翻訳したら恐らく次のやうな言葉を仲間に送つた。
    お友達や仲間の諸君 ぼくが殺されるのを悲しんで逃げろといつて下すつたのをありがたう。ぼくを殺すのは誰でもないぼくの意地です。悲しくはない。悲しいことはなぜ殺しあひがあるかといふことです。それも仕方ないでせう。僕たちだつて色んなものをたべます。自然の暴威は当たりまへです。悲しいのはそれではない、なぜおんなじ兄弟たちなかまたちが殺しあふのだといふことです。
    霊長の人間も人間同士で殺しあふではありませんか。
    諸君 ぼくたちは幸福です。ぼくたちは誰彼の差別なく助け合ひ歌ひあひます。これ以上のことがあるでせうか。それを思ふとぼくはうれしい。ぼくは死んでゆきます。悲しくはありません。さやうなら。万歳して下さい。

そしてにんげん諸君 蛙とにんげんとマンモス、にんげんの声がマンモスの声より小さいだらうといつて、蛙のコーラスがにんげんのそれよりけちくさくしみつたれだと言ひ得るとでも言ふのか。

ぼくは蛙なんぞ愛してゐない!



草野心平「晴天」(『第百階級』所収)

こういう東京を僕にもくれよ

「どうも西洋人は美しいですね」といった。
 三四郎は別段の答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、
「お互いは憐れだなあ」といい出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応の所だが、––––––あなたは東京が始めてなら、まだ富士山も見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵えたものじゃない」といってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「亡びるね」といった。––––––熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲ぐられる。わるくすると国賊取扱いにされる。三四郎は頭の中のどこの隅にもこういう思想を入れる余裕はないような空気の裡で生長した。だからことによると自分の年齢の若いのに乗じて、他を愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとくにやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでも落ちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こういった。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中の方が広いでしょう」といった。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分が非常に卑怯であったと悟った。


夏目漱石『三四郎』より

Friday, November 4, 2011

ここ数日のこと


■一昨日のこと
新木場に行きました。
誘ってくださった先輩と結局会えなかったのですが、どうやらトイレの脇でゴミ袋と闘っているのを横目にしながら「まさかアレな訳ないよなあ、でも近くでまじまじと見るのもアレだしなあ」とスルーしていたのがおそらく先輩でした。
駐車場に叩き出されていたらしい先輩を「携帯電話が切れた」というもっともらしいアクシデントで救いに行けず、ぼくは、築地で海鮮丼を食べました。
芝浦から埋め立て地に入る「ぐるり」となっているところは、近未来って感じがして勢いづきました。なんかサイバーなのはコンピュータよりになりすぎて、ぼくはどちらかというと道路とかそういうのに興奮する性質なので、どうか才能あるエンジニア?クリーター?の卵のみなさんは破竹の勢いのITばかりでなく国土交通省あたりも進路の候補に入れてください。

■昨日のこと
特に何もせずに、手紙を書きました。おいしいものをたくさん食べました。塩風呂に長く入りました。ずっとお風呂&トイレで読んでいた『ガリヴァー旅行記』が残念なことに終わってしまったので、次は『カラマーゾフの兄弟』にしました。ベル・アンド・セバスチャンを聞きました。

■今日のこと
■ファッションとして装備する文学について
■映画館で眠ることについて
■トワイライトについて
■作者のナイーヴさ
今日はとてもよい天気だったので、陸を走る電車に乗りたいと思いました。
早稲田松竹にタルコフスキー「惑星ソラリス」を観に行きました。前日寝ていないので案の定途中で寝ました。
ぼくは、うとうとしながら、映画を観ました。ぼくは、自分が損をしたと思わないような理屈をこね始めました。教養課程の映画の授業、ある映画を一通り見せたあとに新入生に「何が見えたか」と尋ねる。すると哀れな新入生は「こうこうこういうドラマです」「こういう心情です」と筋書きや心情を教育国語の作法にのっとって答える。すると講師「そんなことをきいているんじゃない。『画面に何が映っていたのか』をきいているんだ」、つまり画面の中の構図や色彩についてきいたんだ、えええ筋書きじゃないの映画ってえええ、と衝撃を受けた、みたいな(すごく大雑把)話をききました。
そこから少しズレますが、ぼくは、長編小説について同じことを思いました。長編小説を「読み切る」っていうけれども、「具体的なエピソードとかってすぐ忘れちゃうんだよね」が結構本腰入れて夢中になって読んだ本でもあり得る(だってハリーポッターの諸エピソードとか人から急に話をふられても覚えてない)ことから、菊池寛が後生抱え続けた「筋」なるものは、文学談義の共通見解としても、もしかしたら信用できない。何も考えずにページを繰り文字を追うだけで「筋をわかっていない」ことと、行間まで読み込む勢いで6時から9時のコアタイムを利用して和室で正座して読んで「とてもよく読んだ」こと。この二つは決して比較ができない、ということです。読んだつもりの読み落としという存在が無限に認められる以上。
眼の活動の復旧とフィルムの古さに起因するブレとが重なったり、うつらうつらも佳境をむかえた後半は、止め絵偏差値の高い断片を「文脈もわからず」見続けることなどはなかなかに映画館らしい体験だったのではないか、というあたりで落ちをつけることができました。

そのあと、つづく「鏡」は諦めて、講読の授業を受けに戻りました。戻った次の次くらいで訳の当番が回ってきました。ついているのだと思います。

そのあと、恵比寿の写真美術館に行きました。トワイライトなんちゃらとかいうので、木曜日金曜日の5時半以降に入るとスタンプがもらえて、6つたまると招待券なのです。「写真新世紀展」などは入場無料なのでつまりは無限ループが可能なのです。しかもうちからバイクで10分もかからないし駐輪場は最初のどれだけかは無料です。というわけで来週も行こう。
見たのは、時間の関係もあって無料の「写真新世紀展」だけです。

ちなみに肝心の内容ですが、メモ程度にとどめておきます。
「印象とかイメージとか、お前ら何百年前から進歩してねーな」
作者がそれぞれ書いている制作意図がナイーヴすぎるのと感じるのはなぜでしょう。きみの頭の中のイメージとか見せられても、心底どうでもいい。「イメージを写真という実際に写した時点で『改変』されること」の意識が希薄なのか、もしくはそんなものは写真界では常識でもはやクリシェなのか。
クリシェだとしても、その意識をふまえた上でもあえてイメージとやらを絞り出しているようにしか見えないというところに鑑賞者を追い込む負け犬的方法の工夫や、改変そのものにイメージを重ねあわせるような変態を写真に教え込むことなどの意識がないので「またどこかできいたことのあるような」ばかりでした。評論家と作家を二分割するようなことを言う人がよくいますが、それは表象言語の違いとしては認めるにしても、考え
具体的なセンテンスを引かないと卑怯なんだが、それでも、お気楽だなー闘ってないなーと思いました。

椹木セレクションはなかなか面白かったです。HIROMIXの「終わったコンテンツ」感が漂っていましたが、しかし昨今の女子カメラは彼女が先鞭を打ちましたことには変わりないのでもはや写真史上の人物ですね。ホルガとかはともかく、女子カメラはエントリー用デジタル一眼がメイン?になりつつあるのは、一眼レフの道具としての使い勝手の良さなのかマーケティングなのか。
グッドマン『世界制作の方法』、せっかく買い直したのだから読もうと思いました。(しかし、買い直した奴は読まないというジンクスがある、バタイユ『エロティシズム』とか)
畠山直哉を見に、もう一度は行くはずだから、また併せて書こうかと思います。
黒沢清についても。あと上映会も。

■明日のこと
「平服で構いません」を罠だと感じ取ってしまうような疑心暗鬼の関係を打破したいと思いました。

Thursday, November 3, 2011

今日とは関わりを特には持たないとして

 波子の眼は、宇品の宿舎にいた頃から烈しく痛み出したという。尚よく聞いてみると、神戸を出て宇品へ行く汽車の中で、眼が痛むという友達にハンカチを貸したという。
 私は、夜中であったが直ぐ親戚の眼医者に電話をかけた。そして明日にしますという波子を無理にその眼医者に連れて行ったが、私の想像通り、急性淋毒性結膜炎で、徹夜で二時間毎に薬を挿さねば失明するかも知れないという事であった。
 私は波子を私の部屋に連れて来て、言われた通りの手当をして夜を明かしたが、彼女の眼は、全く濃い膿汁の中に沈んでいた。
 私が徹夜で看病したのは、彼女が嘗て白泉の「青豆蝦仁」を掃除してくれたからなのか。それだけの理由からなのか。
 疲れてウトウトしている波子は、私が二時間毎にゆり起こして眼薬を挿すたびに、かまわないでほしいと言った。かまわないでいれば、君の眼は明日の朝までにつぶれてしまうと医者が言ったではないかと言うと、「恩を受けたくないのです」とつぶやいた。
 この言葉はひどく私を驚かせた。私に賤しい下心が無いとは言い切れないが、それよりも、今一眼を失うか助かるかの瀬戸ぎわで、男の親切が自分の苦労の種になるかも知れないという、その本能的な保身と、たとえ眼がつぶれても男とのトラブルから逃げたいという経験とに驚いたのである。


西東三鬼「神戸」より
『神戸・続神戸・俳愚伝』(出帆社)所収



「しゅっぱんしゃ」っていうギャグなのか。
贈り物に今さら後悔をするくらいにいい本だけれど、いい本だからこそ手元に置いておきたいとも思うのです。本棚を共有することを結婚とするならば、まあ現状いい線は行っているのではないか、だけれども弛まず努力しなければいけない、と思うと、僕も日銭を稼ぐ必要を感じます。いや、本棚は分けるべきか、預金口座と同じように。この本は良かれ悪かれ、呪いです。

Wednesday, November 2, 2011

教養の大切さを教養なしに語るには


 一方でそれはガマガエルをふみつぶす楽しみでもあり、人を差別して見下して踏みにじっていじめる楽しみでもあり、強姦魔や連続殺人鬼のよろこびでもある。ぼくは知らないけれど、自分の信念の命ずるままに、サリンを撒いてカーフィルどもを虫けらのように殺したり、小学生の頭を切り落としたりするのも、すごいおもしろさがあったんだろう。いずれかれらにはそれをきちんと語ってほしいなと思う。その記述はたぶん「我が子を失った親の悲しみ」なんていう紋切り型をはるかに上回るパワーを持つだろう。だってかれらがそのとき感じていた「おもしろさ」のおかげで何をしでかしたか考えてみるといい。ふつうの人がいくら金をつまれてもやらないようなことを、ボランティアでやらせてしまうだけのおもしろさというのは何なのか。きちんとそれを記述すれば、必ずそれは伝染して追随者を生むにちがいない。

「心ときめくミームたちを求めて」より



 蓮實重彦の文は、とてもつらい立場におかれていて、かれが言おうとしていることを普通のことばで言おうとすると、どうしても「人間、結果はどうあれ努力が大事です」とか「やはり結果を出さないとだめです」とか「出会いを大切にしましょう」とか、そういう鼻くそみたいなお説教になってしまう。それはウソではなくて、一面の真実を持っているんだけれど、どっかできいたお説教だと思われた瞬間に、そのことばはもう頭の芯には届かずにバイパスされてしまう。しかもこういうのには、一面の真実のほかに実はいろいろただし書きがついている。たとえば努力は大事だけど、世の中には無駄で無意味な努力もあって、その努力を輝かせるにはある種の結果出しがどうしても必要なんだ、とか。
 だから蓮實は、「例の」お説教だと思われないように、様子をうかがうような文章をつむいでいくんだ。そして予想外の方向からせめて、なんとかみんなの頭の芯にたどりつこうとする。同時に、お説教からはばっさり切り捨てられるいろんな注意書きやただし書きも温存しようとする。

「手っ取り早い結論は諸悪の根源である」より


以上、山形浩生『新教養主義宣言』(晶文社)所収

 前置きをしなくとも経済書で脱構築といえば冗長かつ何でもアリな文芸批評のことね〜、とネタとして使えるような、共通言語としての教養を求めるこの本自身が、教養を必要としているとまではいかなくともそれへの渇望が露となった文章で書かれているこういう見取り図だよ、わたしが問題にしているのは。

Monday, October 31, 2011

子供はかわいい


「志望理由は」
「子供が好きだからです」
「なぜ好きなの」
「かわいいからです」
「かわいくない子がクラスにいたらどうするの」
「好きじゃない子がクラスにいたらどうするの」

ここで詰んでしまうようでは駄目です。

「みんな、かわいいです」
「ほんとかな」
「ほんとです」
「みんな『かわいい』なら、『かわいい』の意味がないじゃないか」
「子供は、みな、かわいいんです」
「大人は、かわいくないのもある」
「そうです」
「動物はどう、人間以外の」
「かわいいものと、かわいくないものとあります」
「君にとっては、子供ならば、すべてかわいい」

「かわいい子供が好きなんじゃなくて、
かわいい子供が好きな自分が好きなんだろ?」
というような、意地悪はもう飽きました。
それでも、「かわいい」たる感覚だけを人に尽くす為の基準とするような
都合のいい弱いものしか愛せないような
そういう人
政治ではなく、わたしはむしろここで恐怖します。

Sunday, October 30, 2011

AOJ(アダルト・オリエンテッド・児童文学)ではなく


ともあれ、メルヒェンを児童文学に囲い込んだ近代は、さらに児童文学そのものを「おんなこども」のものとして囲いこみ、第二列に置いたのだった。そんな児童文学について、わたしに言えることを急いで言ってしまえば、いまやこの囲い込みがあやしいのだ。なぜなら、「おんな」も「こども」も、近代によって引かれた輪郭をかなぐり捨てて久しいからだ。だとしたら、児童文学はいまさらなにに向けて囲いこまれるのか。その対象が、近代というコンテクストでのみ成立していた自明さをとっくに失っているというのに。
おとなの文学のすべてを子供が享受できない以上、児童文学というジャンルはこれからもあるだろうし、おおいにあっていい。ただし、近代の壮大な意図の一貫として出発したというトラウマに、いつまでもこだわることはない。そんなものにいまだに足を引っ張られている(と思いこんでいる)側の責任と言っていい。なにしろ男も、「近代の主体」などというカミシモを脱いで久しいのだ(でしょ?)。見えない囲いこみの実効性を疑うときはとっくにきている。事実、近代が仕掛けた囲いこみをぶち破る気概のある作家による力ある作品は、すでにわたしたちのまわりにおびただしい。
でも、もっとどんどん出て来るといい。作戦としては、そのむかし、『ガリヴァー旅行記』のようなおとなの文学を子供が横取りしたように、こんどはおとなが横取りしたくなるような児童文学を産出することだ。昨今の子供の状況に向き合おうとするならば、たとえば児童文学で『蠅の王』を書くことこそが求められている現実から目をそらすことはできないはずだ。


池田香代子「あいまいな児童文学のわたし」より(青土社、ユリイカ1997年9月号)

ソの戦術


ソクラテス うん、できるとも、ゼウスに誓って、われわれには。もしもわれわれが分別をもってさえすればね。まず、一つの仕方–––これが最良の仕方なのだが–––は、次のように言うことだ。「神々については、われわれは何も知らない。神々そのものについても知らないし、また名前についても、いったい神々が自分たちを何と呼んでいるのか、知らないのだ」とね。というのは、神々ならば、真実の名前を呼ぶことは、明らかだからね。次に、二番目に正しい仕方は、ちょうど祈りの際のわれわれの慣しのように、することだ。つまり、どんな名前であろうと、何にちなんでの名前であろうと、とにかく神々のお気に召す名前を、われわれもまた呼ぶことである。それ以外の名前を、われわれは全然知らないのだと考えてね。実際これは立派な慣しだと、ぼくには思えるのだからね。そこで、君にその意志があるならばだが、われわれは次のように神々に対していわば予告した上で、考察を始めようではないか。すなわち、「神々については私たちは何も考察しようとしておりません。なぜなら、自分たちに考察しうる能力があるとは見なさないからです。むしろ私たちは人間について、彼らがいったいどのような意見に基づいて神々の名前を定めたのであるかを、考察しようとしているのです」とね。なぜなら、これならば神々のお怒りを招くこともないだろうからね。

プラトン「クラテュロス」(岩波書店『プラトン全集』第2巻所収。水地宗明訳)

Sunday, October 23, 2011

善良な銃から発射される


おれたちの話をきけ。おれたちにはわかっている
おまえはおれたちの的だ。だからおれたちは
おまえを壁のまえに立たせる。だが、おまえのためになるし、おまえはいいやつだから
おれたちはおまえを善良な壁のまえに経たせる、そしておまえを撃つ
善良な銃から発射される善良な銃弾で、そしておまえを埋める
善良なシャベルで、善良な地中に


ベルトルト・ブレヒト「善人の尋問」より

理解ある妻という前提


 社会主義のもとでの、若者に対するレーニンの助言、若者はなにをすべきかという問いに対する彼の答えは、「一にも二にも勉強」であった。この助言はたえず引用され、学校の壁にも掲げられた。ジョークはこれをふまえたものだった。
 マルクスとエンゲルスとレーニンが、奥さんと愛人どちらを持ちたいか、ときかれる。私的な問題に関しては保守的であったマルクスは、予想どおり「奥さん」と答える。それに対し、享楽家であったエンゲルスは、愛人を選ぶ。そしてレーニンは以外にも「両方」と答える。なぜか。厳格な革命家というイメージの下に退廃的な享楽家が隠れていたからか。そうではない。彼はこう説明する。「両方いれば、奥さんには愛人のところに行ってくるといえるし、愛人には妻のところに帰らねばといえるからね……」。「それで、あなた自身はなにをするのです?」「ぼくは人里離れたところに行って、一にも二にも勉強さ!」

スラヴォイ・ジジェク『暴力––––6つの斜めからの省察』(中山徹訳、青土社)

Thursday, October 20, 2011

冒頭

漱石をやりすごすこと 
 漱石をそしらぬ顔でやりすごすこと。誰もが夏目漱石として知っているなにやら仔細ありげな人影のかたわらを、まるで、そんな男の記憶などきれいさっぱりどこかに置き忘れてきたといわんばかりに振舞いながら、そっとすりぬけること。何よりむつかしいのは、その記憶喪失の演技をいかにもさりげなく演じきってみせることだ。顔色ひとつ変えてはならない。無理に記憶を押し殺そうとするそぶりが透けてみえてもいけない。ただ、そしらぬ顔でやりすごすのだ。それには、首をすくめてその影の通過をじっと待つ。肝腎なのは、漱石と呼ばれる人影との遭遇をひたすら回避することである。人影との出逢いなど、いずれは愚にもつかないメロドラマ、郷愁が捏造する虚構の抒情劇にすぎない。だが、やみくもに遭遇を避けていればそれでよいというわけのものでもない。漱石と呼ばれる人影のかたわらをそっとすりぬけようとするのには、それなりの理由がそなわっている。それは、ほかでもない。その漱石とやらに不意撃ちをくらわせてやるためだ。漱石を不意撃ちすること。それも、ほどよく湿った感傷の風土を離れ、人影が妙に薄れる曖昧な領域で不意撃ちすること。だが、なぜ不意撃ちが必要なのか。誰もが夏目漱石として知っている何やら仔細ありげな人影から、自分が漱石であった記憶を奪ってやらねばならぬからである。人影は、いかにもそれらしく夏目漱石などと呼ばれてしまう自分にいいかげんうんざりしている。そう呼ばれるたびに自分の姿があまたの人影からくっきりときわだち、あらためていくつもの視線を惹きつけてしまうさまに苛立ち、できればそんな名前、そんな顔を放棄してみたいとさえ思う。ところがなかなかそうはいかない。このとりあえずの名前でしかない夏目漱石を背負った人影に瞳を向けることが当然の義務だとでもいいたげに、誰もが、善意の微笑さあえ浮かべているからだ。人影は、この善意の微笑にまといつかれてほとんど窒息しかかっている。しかも、それを裏切る術を人影は知らない。だから、その顔も、その声も、いかにも漱石ふうに装いながら、息苦しさを寡黙に耐えつつ人影はあたりを彷徨するほかはないのだ。だから、みんなが、つい声をかけて呼びとめたくなるのもしごくもっともなはなしというべきではないか。しかし、いまは、遭遇への誘惑をたって、こちらの存在をひたすら希薄に漂わせておこう。そして、漱石たる自分に息をつまらせている人影から、抒情にたわみきった記憶を無理にも奪いとってやる必要があるのだ。顔もなく、声もなく、過去をも失った無名の「作家」として、その人影を解放してやらねばならない。漱石を不意撃ちしてその記憶を奪い、現在という言葉の海に向って解き放ってやること。そして、言葉の波に洗われて、その人影がとことん脱色される瞬間を待つこと。さらには、書く人としてあったが故にかろうじて漱石と呼ばれうるその人影に、匿名の、そして匿名であればこそ可能な変容を実現せしめ、あたりに理不尽な暴力を波及しうる意味と記号の戯れを、「文学」と呼ばれる言葉の地場の核心に回復してやらねばならぬのだ。そのためにも、ひとまず、漱石をそ知らぬ顔でやり過ごさなければならない。だが、それは何より厄介な仕事である。


仰臥と言葉の発生  
 「生憎主人はこの点に関して頗る猫に近い性分」で、「昼寝は吾輩に劣らぬ位やる」と話者たる猫を慨嘆せしめる苦沙彌の午睡癖いらい、「医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下した」という冒頭の一行が全篇の風土を決定している絶筆『明暗』の療養生活にいたるまで、漱石の小説のほとんどは、きまって、横臥の姿勢をまもる人物のまわりに物語を構築するという一貫した構造におさまっている。『それから』の導入部に描かれている目醒めの瞬間、あるいは『門』の始まりに見られる日当たりのよい縁側での昼寝の光景、等々と逐一数えたてるまでもなく、あまたの漱石的「存在」たちは、まるでそうしながら主人公たる確かな資格を準備しているかのごとく、いたるところにごろりと身を横たえてしまう。睡魔に襲われ、あるいは病に冒され、彼らはいともたやすく仰臥の姿勢をうけ入れるのだ。横たわること、それは言葉の地場の表層にあからさまに露呈した漱石的「作品」の相貌というにふさわしい仕草にほかならぬ。事実、『吾輩は猫である』の猫が報告する主人の日常は、家人を偽って書斎でうたたねをするきわめて不名誉なイメージではじまっていたではないか。「吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしてゐることがある。時々読みかけてある本の上に涎をたらしてゐる」と、猫は容赦なく暴露する。なるほど、ここでの苦沙彌は、机にうつ伏しているのではあろう。だが、その名からしてもいかにも意義深い「臥龍窟」への不埒な闖入者たる迷亭が、「時にご主人はどうしました。相変わらず午睡ですかね、午睡も支那人の詩にでてくると風流だが、……」といった調子の揶揄を苦沙彌の妻に浴びせるとき、彼は、間違いなく人目を避けて身を横たえている。そしてその仮の眠りは、迷亭の場合がそうであるように、きまって他社の侵入によって脆くも崩れ去ってしまう。というより、むしろ、苦沙彌がたえず睡眠への斜面を仰臥の姿勢で滑りつつあるが故に、その周辺にはおびただしい数の多彩な顔ぶれが寄り集ってしまうかのようなのだ。その顔ぶれが、「臥龍窟」をとりとめのない饒舌でみたすであろうことは、あえて指摘するまでもない。



蓮實重彥『夏目漱石論』(青土社)

Saturday, October 15, 2011

成熟と循環(RP)

 
 九〇年代、特に後半の五年間に広く社会に共有された「引きこもり/心理主義」に対し、優れたアプローチを残した三つの「九十五年の思想」––––––宮台真司(前期)、『エヴァ劇場版』、『脱正義論』––––––は、誕生後すぐに、死んだ。
 それは総じて、決断主義に対する敗北だった。「九十五年の思想」はいずれも、九○年代的な「引きこもり/心理主義」によって肯定される自己像=キャラクター設定的なアイデンティティを保持するためには、その設定を承認するための共同体=小さな物語が必要であること、そしてその小さな物語はその存在を維持するために時に他者に対して暴力性を発揮することを––––––具体的にはオウム真理教を通して認識していた。そしてその処方箋として、ある種のニーチェ主義的な強さ(「意味から強度へ」)を提示した。それはより具体的には、特定の小さな物語に依存することなく、価値観の宙吊りに耐えながら(気にしないにしながら)生きるという成熟モデルである。
 しかし、これらのニーチェ主義的成熟モデルは、性急に小さな物語を求め、その共同体の中で思考停止する「引きこもり」から「決断主義」への潮流に、批判力を持ち得なかった。前期宮台「ニュータイプ論」は時代とともに破綻し、『エヴァ劇場版』と『脱正義論』は「セカイ系」と『戦争論』という小さな物語への依存=決断主義に回収された。
 なぜか––––––それは、現代を生きる私たちは小さな物語から自由ではあり得ないからだ。たとえ「何も選択しない」という立場を選択しても、それは「何も選択しない、という物語の選択」としてしか機能しない。人間は物語から完全に自由ではあり得ない。私たちは小さな物語たちを、何らかの形で選択させられてしまうのだ。にもかかわらず「九十五年の思想」小さな物語から自由な超越的な視座=「外部」を設定する、ある種の物語批判を通して強い「個」の確立を志向していた。
そして、個人の生が求める意味=物語の備給という欲望に応えない「九十五年の思想」は、物語批判的な超越性という空手形が不渡りを出す形で破綻を迎えた。存在し得ない外部性に依存する「九十五年の思想」の消費者たちは耐えられず、決断主義的に意味を備給する小さな物語に回収されていったのだ。


宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房)

赤コーナー

あなたはだんだんきれいになる


をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きもが
生きて動いてさつさつと意欲する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修業によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時々内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。


高村光太郎『智恵子抄』より

Friday, October 14, 2011

アフリカより


アフリカのどこかの国で教員をしている知人が顔本で書いていたやつの引用です。
これ以上くわしく書くと誰だかもしかしたらバレてしまうかもしれないので書けません。
以下引用

少し長いですが、面白かったので。
 私の配属先の学校は寮生の高校で生徒の管理が厳しすぎる。
 しかし、生徒は学校から抜け出せたとしても、周りには何もなく、​30分も歩いていかないと町には辿りつかないし、悪事と言っても​、たばことビールとケンカくらいしかできない。しかも、町にはビ​ールと煙草を呑みながら、さぼっている否、見張っている勤勉な教​師が町に数件しかない飲み屋に駐在しているので、そうやすやすと​は買えないし、買えたとしてもすぐに見つかりおしりぺんぺんの刑​が関の山である。
 時折、酒を飲んでいるという通報により、生徒が生徒によって連行​されるという珍妙な場面に出くわし、後始末を押し付けられること​がある。今日も現場へ急行し、証拠品を押収するために、ケースの​中を見ると、何本ものビールが申し訳なさ気に衣類の間に挟まれて​いる。
 さて、この生徒。様々な障害を乗り越え、町から30分もかけて瓶​を鳴る音を出来るだけ小さくしながら、それらを寝室まで持ち帰り​、そして隠し、辺りが静まった頃を見計らって、特に二段ベッドの​上段にいる友人に見つからないように、こっそり飲み、「あぁうま​い」とか「あぁ生き返る」とか言うことすら許されず、「何飲まぬ​顔」でしかも友人に酔っ払っているとは思わせない絶妙なテンショ​ンが高さで酒を楽しんでいたことを考えると、アカデミー賞をあげ​たいくらいの気持ちになる。私なら気が狂い、ビールと間違えて尿​を飲んでしまいそうなものである。

引用以上
匿名

Saturday, October 8, 2011

「夜話」の読み方を知る(やわ)

村上 (略)逆説だけど、自分にセンスがない人は、自分にセンスがないという事実を認めるセンスがないということです。
 あともうひとつ僕が言いたいのは、非常に不思議なことで、僕もまだ自分のなかでよく説明できないんですけど、「自分がかけがえのある人間かどうか」という命題があるわけです。たとえば、皆さんが学校を出て三菱商事に入って、南米からエビの輸入をする仕事をするとします。それで非常に一生懸命にやるんだけども、じゃあ、かけがえがないかというと、かけがえはあるんですよね。もし病気で長期療養したら、別な人がそのエビの取引の位置について、一生懸命あなたの代わりにやるわけです。それで三菱商事が、たとえば皆さんが二年間病気になって困るかというと、困らないわけです。というのは別の人を連れてきて同じ仕事をやらせるわけだから。だから、あなたほどうまくやれないかもしれないけれど、三菱商事が困るほどのことはないですね。
 ということは、いくら一生懸命やってもかけがえはあるわけですよね。というのは、逆に言えば、会社はかけがえのない人に来られると困っちゃうわけです。誰かが急にいなくなって、それで三菱商事が潰れちゃうと大変だから。その対極にあるのが小説家なわけです。ところが小説家に、たとえば僕にかけがえがないかというと、かけがえはあるんです。というのは僕が今ここで死んじゃって、日本の文学界が明日から大混乱をきたすかというと、そんなことはないんです、なしでやっていくんですよ。だから全く逆の意味だけど、かけがえがないというわけではない。





質問者F 日本の作家の方で、日本語の大辞典を何冊も潰すほど日本語を生み出すのに苦労なさっている方がいるということを、何かで読んだことがあるんですけれども、今度は逆に日本語にする段階でご苦労な点は何なのか。
あと、私は翻訳の勉強を始めたばかりなんですけれども、日本語を磨けとよく言われまして、意図的にそのへんの努力をなさっていることとかがありましたら聞かせていただきたいんですけれども。
柴田 まずですね、その、日本語を磨きましょうという言い方をよく目にするんですけど、どうも何か違和感があるんですね、僕は。何でなのかなあ、所詮自分の使える日本語しか上手く文章にはのらないということを痛感するんです。
たとえば、文章を練る上で類義語辞典というのは必須なわけですね、よく使うわけです。それで、このAという言葉ではしっくりこないから何かないかなと思って辞書使いますよね。そうするとBという類義語があって、これは自分ではあまり使わない言葉だけど、おーいいじゃないといって使うでしょう。それで次の日に読み直してみると、やっぱりそこだけ浮いているということがものすごく多いんです。
だから結局、自分にしっくりくる言葉には限りがあって、それを活用するしかないなというふうに思うことが多いです。だからもちろん、自分に使える言葉を豊かにするために、いわゆる日本語を磨く、いい文章をたくさん読むというのは、原理的には大事だと思うんですけれども、そうやっていわば下心をもって、いわゆる美しい日本語を読むことを自分に強いても、そう上手く自分のなかには染み込まないんじゃないかと思うんです。というか、そう思いたい。
あとね、何で僕がそういう磨くとか鍛えるとかいう考え方がいやかというと、僕にとって翻訳は遊びなんですよ。
村上 ははは。
柴田 違います?
村上 いや、そうです。そのとおりです。
柴田 そうですよね。だから、仕事じゃないからそんな苦労はしたくないし(笑)、ええっと、いや、みなさん笑うけれどこれ真面目に言っているんですよ(笑)。あのう、ええっと、なんというんだろう、要するに、日本語筋力トレーニングみたいな感じでね、好きでもないのにこれは美しい文章なんだからって自分に無理強いするみたいなことはしたくないんですよ。
そもそも何が美しい文章かっていうことの基準なんてものはないし、べつに日本文学に限らず英米文学でも、美文の基準みたいな者が会って、それに則って書くのが正しい作法だみたいなことは現代の場合全くないわけですよね。だから、いわゆる美しい日本語といわれるものが仮に身につくとしても、それは単に、ある特定のトーンの日本語を身につけるだけのことだと思う。




村上春樹、柴田元幸『翻訳夜話』(文春新書)より、適宜改行
しかし傍点も打てないとは。

Friday, October 7, 2011

原稿書いていて心臓バクバクすることはないのか

医者が僕のレントゲン写真を出して
「心臓肥大です、要注意ですな」と云つた

僕は尋常一年のとき運動会で駈けつこに出た
すると「用意、どん・・・・・・」の直前
不意に胸がごつとんごつとんと鳴りだした
これが僕の記憶する最初の胸の高鳴りだ

最近は胸のときめきを感じることがなくなった
原稿書いてゐて胸がふと動悸を搏ちだすことなど更らにない
僕の感動の最後助だと思はれるのは
京竿で一尺山女魚を釣つたときのものである

僕の心臓は干涸びてしまつてゐる筈だ
心臓肥大とは誤診だと思ひたい



井伏鱒二「誤診」



Wednesday, October 5, 2011

引用からはじめる

われわれが自由にしていたもっとも刺激的な語は、それが発言されるにせよされないにせよ、あの「・・・のように」という語である。この語を通して、人間の想像力はその力量を示すののであり、精神のもっとも高い運命が成就されるのである。

アンドレ・ブルトン「上昇記号」より

Thursday, June 9, 2011

茄子の味噌炒めとビール

先日は、ひさしぶりに徹夜をしました。
内定が出た友人のお祝いで、黒澤清「キュア」を鑑賞し、安い(失礼)シャンパンを空けて、宅配ピザをとりました。それとコーヒーだけで、案外夜は明かせるものです。

その内定者が「時間を増やす手っ取り早い方法は徹夜だ」と改めて言うので、何か背後にある壮大な理論を感じてしまいました。

そして、今日は、なすの味噌炒めとビールを飲んでいます。ビールは、そのお祝いで残ったハートランドビール。茄子の炒め物をするときはフタをしめて水を出させることが大切、らしいです。

小学校の頃の親友であったコマキくんは茄子が嫌いでした。あの味においしさはないだろう、と。
僕は茄子がわりと好きだったし、今も好みます。ですが、コマキと友人であることを抜いても単独で茄子の不味さというものが想像できます。君の言う茄子の底知れぬ淡白さとかは苦手な人がいるよねーとかいう「言葉を理解する」レベルではありません。ぼくは食べながらも、その底知れぬ淡白さを捉え、嫌いもする。そういう意味で、なすの不味さというものが理解できる。少なくともわかった気でいる。
「まずさはわかる、しかしそこを乗り越えて、そここそが好きなのだ」という、反-反論と範囲の限定というかたちで、ぼくは茄子をより一層ただしく愛することができるのです。

これは食べ物の好き好みだけの話なのか、についてはまだわかりません。

Monday, June 6, 2011

アテンダンスポリシー2011

先月は7本しかブログを更新していないのはよくないよくないよくない。
よくないことは重要なことなので、3回書きました。

本居宣長の講義が地味に面白いためそのことを書こうと思いましたが、次回にします。

シラバスに「出席重視」とか書いておきながら初回で「まあ哲学の授業ですから出なくてもレポートこなせば構いません」「出席はボーナスポイントだけです。全部出た人に単位出さないわけにはいきませんので。出なくても結構」という撤回?を何回か目にするのだけれど、そういう風習というか文化みたいなものがあるのでしょうか。

「落とす」っていうのはなかなか面倒なんだよ、と親切な先生は言います。
そこから想像すると、「何と言おうと俺は出ない!」という過去の先輩の(有益かどうかは知らないが)頑張りと、落とすの面倒だしボーナスあげておくかという教員の慈悲との、せめぎ合いが現状を生んだのでしょうか。

それともそもそも何か「本質的に」出席を必要としないような伝統を正当化する理屈があるのか。
参考文献の引き方で流派の違いっていうのはわかるけれども、それを学部の講義における出席ポリシーにも適用するという話はきかない。それくらい学部の講義は担当の任意ってことなんだろうけど、その任意の偶然からなる集合なのかな。英国経験論みたい。

Monday, May 23, 2011

英語とアニメと早起きと


遠い将来の何かのために役立つだろう、という曖昧な動機だと、英語は身に付きにくい、みたいな話をよくききます。何か、「明確な理由」というものが必要なようです。パトナムが死ぬ前に英語で文句つけたい!とか、無料ポルノサイトが今すぐ見たい!とか、金髪のちゃんねーと仲良くしたい!とか、全米オープンに出場したい!とか、具体的で切羽詰まったものがあったほうが、確かに、身に付きやすそうです。


今日、アニメファンのゼミメイト(ゼミが同じ人、という意味)が「日曜日が一番早起きだよ」と、つぶやいていたのが、印象に残りました。「7時には起きないと」


早起きにしても、結局のところ、このような、切羽詰まったものが、必要なようです。ちなみに、何が切羽詰まらせるかというかと、彼女の場合(というか多くのリアルタイムでおっかけているアニメファンの場合)ハードディスクに録画をしてしまうと、追いかけきれなくなってしまうので、見逃すととてもやっかいなことになるそうです。なんてったって「いやー今期は24本くらいしかないからねえ」っておかしくないか、聞き間違いかも知れません、飲み会終盤でしたし。


1の理由の一つに、「好きこそものの上手なれ」というものが、紛れ込んでいるのでしょう。好きなものしかやらねー、をより充実させるために、部分的に早起きという習慣を(できれば負担なく楽に)取り入れたいと思っている虫の良い私にとって、好きなことしかやらない暮らしを充実させるための早起き=やりたくないことの「中」に、やりたいことを「装備」させる、という作業は、構図として入り組んでいますが、説得力はあるものです。その納得を力に、がんばります。


ごちゃごちゃいってないで起きればいいんだよ起きれば、という原理主義におびえながら。

Sunday, May 22, 2011

エクリチュールとか航海とかなんとなくむず痒いけれども

オープンエンディッド・ライティング・プロセス


 さて、ここで考えてみたい人間にとっての書くという行為は未知の、今まで考えたことのもなかったような世界に到達するための活動である。こうした目的を持つ作文の技法はオープンエンディッド・ライティング・プロセスと呼ばれる。
この作業は未知の大陸への大航海(VOYAGE)に例えることができる。どこかに向かってまず旅立ち、陸地が見えたらそこへの上陸方法(LANDING)を考えるのだ。まず旅立ちから考えていこう。
 この段階の目的はできる限り最大のカオスを作りだし、どこに向かっているのかわからなくすることである。新しい資料に浸りきり(RESEARCH)、わき道にそれ、あちこちを覗き見し(FIRST TIME、対象との最初の出会いは大切である。自由に柔らかな精神で接触すべきだ)、混乱を作り出す。そしてただぶらぶらする。やがてなにか書く時期がくる(FREE WRITING)。とりあえず、二〇分から三〇分自由に書いてみる(IMMERSION)。そして読み返してみる。
自分の書いた文章の中に、なんらかの中心となるアイデアはあるか、今まで考えなかったことがあるか、そしてもし何か言いたいことがあるとしたら何かを文章の中から、つまり自分のエクリチュールの中から捜し出す(PERSPECTIVE)。そしてその考えについてまた文章を自由に書く。
 この作業は言葉の海へ出かけていく動きと、自分の動きになんらかの跡付けを試みる動きである。この作業を気長に繰り返していくと、何が書きたいのかのヴィジョンが見えてくる(VISION)。だが、ここで明確なアウトラインや展望を作る必要はない。(ROAD MAP、つまり、どの方向に向かおうとしてるかのデッサンでよい)。
ヴィジョンが見えた段階(LANDING)で第一草稿を書き始める(FIRST DRAFT)。書きながら(FOCUSED GESTATION)アウトライン(OUTLINE)を考えていく。出来上がった原稿をもう一度検討して(REVISION)、文体や文法、綴りを検討して(EDITTING)、清書をする(FINAL WRITING)。

以上がオープンエンディッド・ライティング・プロセスである。技法をエイジェントに分けると

VOYAGE
RESEARCH
FIRST TIME
FREE WRITING
IMMERSION
PERSPECTIVE
VISION
ROAD MAP
LANDING
FIRST DRAFT
FOCUSED GESTATION
OUTLINE
REVISION
EDITTING
FINAL WRITING

となる。



奥出直人「ライティング・エンジン」現代思想1989年3月号より

Saturday, May 21, 2011

ご無沙汰しています


とてもひさしぶりの更新になりました。


無精をお詫びする前に、わたしの、少し過去の話を、させてください。
僕は講義に出る前と帰ったあとに、さまざまなインターネット上のチェックをすることを日課としています。メールボックスやらツイッターやらに加え、わたしの趣味というか役目は「友人のブログにきちんとアクセスすること」です。さっき数えたら訪問すべきブログは19個(5月21日現在)。


これまでの本ブログの、かつての某しょうこたんには遠く及びませんが、一週間に5回更新という、わたし基準ではそれでも驚異ともいえるハイペースの原因の一つに、「あーあ。毎日チェックしているのになんでみんな全然更新しないんだろう。ぼくはとても楽しみにしているのにな」から「よし。わたしがブロギングするからには、きちんと毎日、それが叶わなくともそれに近しい更新をしよう」という、飛躍を含む、消費者目線に立った何かしらの過剰なサーヴィス精神=論理があったように思えます。


ここで、わたしは、ひとつのことを学んだのです。
これまでは、そう、子どもだった。書く側の苦労など考えない。いや、考えたとしても「なんで毎日、いや一週間に一本くらいは、ちょろっと内容のあるもの書けないのかな、文章書くのが嫌いならブログなんて最初からやらなければいいのに。辛いだけだよ」という自分がノリノリであることによる上昇気流に乗っかって2万フィート上空からもの言う、そんな高慢な態度でしかなかったのです。
いまは、「教える側の気持ちにもなれよお前ら・・・」という、脱消費者意識を遂げた(やったことねえけどおそらくは)教育実習生の気持ちです。
というわけで、書かない、あるいは、書けない、ということは、優しさに包まれていたのです。


堕落の実というのはなんとも説得力に満ちあふれているのでしょうか。
説得というものを一部放棄する他、もしかしたら、朝起きるだとかメールの返信をしっかりするだとか寝坊しないだとか課題のリーディングこなすだとかは、達成されないのかと、思うと、論理の話をしているのにも関わらず、わたしは悲しくなるのです。


お詫びしようと思ったら悲しくなってきたのでここらでおしまいです(結局詫びず)。
おやすみなさい。

Tuesday, May 10, 2011

いちご100%について

わたしのゼミで、河下水希『いちご100%』について考える上で、重要かと思われる観点について話し合った。

(0)はじまり
「『いちご100%』の作者は河下水希である」という言明があったとしよう。
事実だとされているが、この現実世界においてこの言明が正しいかどうか、ということは問題にしない。「世界中には同姓同名、偽物など河下水希さんは複数名いますよ~」というような疑問も、それはそれで正しいのだが、ここでは黙っていることにする。
むしろ、長期的な視点において問題にしたいのは、この言明が正しい、とされるのはどのような場合なのか、ということだ。そして、この言明と現実世界はどのように対応して、どのように食い合っているのか、を明らかにすることだ。


(1)かの有名な合成原理
文章というものは、それを構成している言葉の意味によって成り立っているものだ、と考えてみる。
これは、たとえば「犬が吠えた」という文章をとっても、それを成り立たせている(細かい区分の方法は別として、少なくとも構成はしている)、「犬」「が」「吠え」「た」のそれぞれの意味の集まりだ、と考えることは直観的には、うん、そうなんじゃないの、と感じさせる。


(2)合成原理の言い換え
上で述べた前提を、「意味が表される仕方には依存しない」、と書き換えてみる。つまりは、「どう言おうが同じものが指せる、言い換えは可能」「同じものを指すことができたのならば同じ意味をもつ文章」だとしようぜ、ということだ。
このこと単独では意味はわかるし、直観にも叶う。
だが、(1)の同義となっているかがよくわからない。わからないのでとりあえず次へ。


(3)ふしぎなことが起きる
(2)をふまえると、「『いちご100%』の作者は河下水希である」「河下水希は河下水希である」は、まったく同じ意味をもった文ということになる。
どういうわけか。どういう了見か。


(4)了見
『きまぐれ★オレンジロード』の作者、は、河下水希という漫画家である。もっと言えば、河下水希という名の現実の何かと対応している。ちょっと待て。では、そこのところをマルッと入れ替えても同じではないか。
A=AとA=Bは、等号を信じるのならば結局同じこと言っているでしょ、と同じことだ。A=BならB=Aだ、ゆえにA=Aと同じことを言っているのだ。


のようなことをフレーゲは主張しているのではないだろうか

と、ゲーデルは主張しているのではないだろうか

のようなことをわたしは授業でやっている。
サークルなど趣味活動のさらなる充実などにとどまらず、就職活動などの自己実現や、現代日本における社会貢献に役に立つこと請け合いである。


(0)の、もっともな疑問に対しては、以下のような構えをとることにする。構えというか予感みたいなものだけど。
(1)はおそらく心理学的見地による意見が必要だな。ばらばらのパーツがいくら集合したところでそれだけでは意味は持ちえず、われわれはそれら集合の全体として意味をとらえているのだ、という話があるし。

古代哲学は文献の都合上、孫引きありきという面白い分野らしいのだが(この話はもう少ししたらまたしたいです)、ここでもまた孫引き。あとすごくどうでもいいけど古代によくいる「偽○○」。「偽ヘルメス文書」とかの。よく知らんけど。それを英語ではps-ということにしびれた。いや発音知らんので響きというより汎用性に。これからいやなことがあったら、頭の中でps-を頭につけよう。うん。そうしよう。間違っているよね。うん。そうだよね。

Sunday, May 8, 2011

ゲイの普遍と特異と

 ところで、たとえば女性の初花を十二、三歳の上に選ぶというような贅沢は、昔の大名とか将軍とかでない限りは許されない。それに又、異性愛は広き門である。たとい理想的なベターハーフを穫ることはこの地上では絶望であるとにしても、ともかく相手は何処にでもいる。環境についての顧慮は不要だし、なお何人にも先刻了解ずみの事柄に属する。それに反して、少年愛はきわめて狭き門である。「教師や監督者の中に小児を性的に誘惑する者が非常に多いのは、その好機会が与えられているという理由だけによって説明される」フロイトが述べているように、ある境位に恵まれない限り、何とも手の打ち様のないものである。初めに挙げた絵巻物の人物が雲中高貴に属し、その手廻り品として有職故実の調度が見られるように、少年愛は経済的背景と教養とに多大のつながりを持っている。それは開化につれて、次第に市民間に伝播して行く。そうではあるが、宮廷とか僧院とか、武家とかを中心とする少年愛的雰囲気に身をおくのでなければ、此種の本能は呼び醒まされない。少年愛に目ざめるためには特権階級に身を置く必要があった。



 さらに又、あらゆる女性は潜在的には美女の資格がある。女はだれでも「女」に相違いないからだ。女性は模型自然だと云えるが、美景が滅多にないように美女も到って稀である。しかし庭木や鉢植が同じ模型自然に属している限り、別に素敵な美女でなくともわれわれを十分に愉しませてくれる。で、「まず差支えない」と云うことになる。少年ではそういう具合に行かない。先方が別に待機しているわけでなく、実に根気の要る開発であるからだ。それに少年愛を「美道」とも呼ぶように、相手は「美少年」でなければならない。美少年とはこの場合、「他者の裡に再発見したナルシシズム的対象のことだ」と云っておこう。それにしても、少年らはその総てが美少年なのでは決してない。


稲垣足穂『増補改訂 少年愛の美学』(角川文庫)


■■カラオケ
昨晩は、ゲイ的文化とカラオケと盛り上がりと大衆文化と異端と人気と無意識の愛好といろいろなことを勝手に示唆深く受け止めたカラオケでした。
新宿二丁目で受ければ日本中で受ける、この法則はジャニーズしかり、最近ではAKB48も証左になったそうな(そういう観点でAKBのブレイクを予見している文章をどこかで読みました。なんだっけな)。
浅いジェンダーの観点からすると、クイアは忌み嫌われるものとする暗なる前提のもと、それは人道的に悖る(これだと浅すぎるが例ということでご了承を)だろうという論調になりがちです。不勉強からかも知れないが私もそう感じる。
この暗なる前提の提示、というのが、やっかいで、ゲイのある側面を見失うことに繋がるのでは、という懸念を抱きました。実はみんな、同性愛をどこかで本当は愛しているのではないだろうか。そういった可能性も考慮しながら進める議論を放棄しているのではあるまいか。
ギリシア期の同性愛文化を知ること、と、21世紀日本の自分に引き寄せて考えることの違いについて、考えなくてはいけないのだ、と強く感じました。


■■暮らし
□前日就寝:?
□起床:?
□朝食:マクドナルドでホットコーヒー
□昼食:カジュアル中華で餃子、エビチリ、チャーハン、杏仁豆腐、バンバンジー、青菜の塩炒め
□夕食:ゆでたまご、チーズ、ピノ

Sunday, May 1, 2011

早起きっていいのか

 人いきれの為だけでなく、気分が悪い。それは寝不足の所為である。今朝は七時に起きて、一体私はそんな時間に起きた事がないので勝手がちがって、目がぱちぱちする様だったが、それから今こうして、十時にここまで出て来る間、わき目も振らずせかせかと、一心不乱にでかける支度をしたのだが、上厠したのと顔を洗ったのと、洋服を著たのとで三時間が経過した。勿論御飯を食べるなどと云う、そんな悠長な真似はしていられない。尤も腹が減っていると云うのは、私の一番好きな状態だから、御飯を省略したのは一向構わないが、何しろ、する事なす事一一にひどく手間が掛かって、何事もさっさと埒があかないのが困る。
 だから午前十一時の汽車に遅れない様に乗ると云う事は、私に取って難事なる事を自分で承知しているから、今日の出発をきめて以来、昨日も一昨日も、朝は無理をして早く、八時に起きた。二三日の練習で癖をつけようと考えたのである。しかし何のたしにもならなかった。ただ眠かったばかりで、その日にそうした事が翌日の助けなぞになるものではない。朝は無理をして起きたけれど、つまり起きる方は無理を強行したけれど、夜寝る時に無理をして眠ってしまうと云う事はしなかった。矢っ張りいつもの通りなんにもしないで、いつ迄も何となく起きていて夜更かしをするから、朝早く起きただけ損をした事になる。それが一日じゅう残って、寝不足で気分が重い。二三日早起きして癖をつけるなどと云うのは、丸で意味のない思いつきだったと云う事が、後になってよく解った。寧ろその前日迄、何日間はふだんよりも、もっとよく寝ておいて、当日一日だけの寝不足にした方が余っ程利口であったと思う。
 どこかへ出かけるのもいいが、朝の支度や寝不足や、そう云う事がつらいので、つい億劫になり出不精になる。人に頼まれたって引き受けるものではないが、阿房列車は自分で思い立ったのだから、少少眠くても仕方がないだろう。


内田百閒『第一阿房列車』(新潮文庫)




最後の段落で、この前引いた「旅」に関する二つの文章(冨樫、川上)から強引に早起きに結びつけます。
早起きするかしないかは、言ってみれば、内田百閒と宮沢賢治の違いなのかも知れません。午前中がプライムタイムだ、とかいうのはおそらく(うさんくさいけど「脳科学的にも」)定説なんでしょうが、実力をもって定説をひっくり返すというのは構図としては愉快ですね。

しばらくネット環境から外れますので、次回の更新はおそらく木曜です。
そのための準備に手間取る様を百閒先生は見抜いておられる。

■■暮らし
□前日就寝:5時
□起床:10時30分
□朝食:コーンフレーク
□昼食:コロッケサンド、豆乳、ぱっくんちょ
ぱっくんちょはディズニーの版権を豊富に使っている関係からか明らかにライバルと比べて価格対量が違いました。

君の言うことには反対だが君がそのことを言う権利はうんぬん、ほんとうの人格よりもそう思われたい人格うんぬん

 寛容な一心理学のために。
 他人に、たえず自分の欠点ばかりが気になるように仕向けるよりも、その本人が好ましいと思っているその通りの人間だと思いこませるようにしたほうが、より人助けになる。普通、だれでも自分の理想像に近づくように努力をしているものだ。このことは、教育学にも、史学にも、哲学にも、政治学にも適用できる。たとえば今日のわれわれは、二十世紀に及ぶキリスト教的理想像の結果である。二千年来、人間は、自分の屈辱的な姿を示さねばならぬ状態に陥っていた。その結果はごらんの通りだ。いずれにせよ、もし過去二十世紀のあいだ、古代の理想がその美しい人間の容姿とともに持続しえたとしたら、今日われわれは一体どのようになっていただろう?



 反抗。
 結局はぼくは自由を選んだ。なぜならたとえ正義が実現されぬにせよ、自由は、不正に対して抗議する力を守り、意思の疎通を守ってくれるからだ。沈黙の世界での正義は、沈黙する人びとの正義は、連携を打ちこわし、反抗を否定し、同意を取り戻させてしまう。しかも、このたびは、それも最も下劣な形でだ。この点にこそ、自由が少しずつ手に入れる価値の優位性が見てとれよう。けれども難しいのは、すでに言われたように、自由が同時に正義を必要欠くべからざるものとするという見解を決して失わぬことだ。もしそうしたことを仮定すれば、自由のためにしか決して死のうとしなかった人間たちの歴史のなかに、たとえその内容は大層違っていようと、唯一の恒久的な価値を据えるべき正義も存在するのだ。
 自由とは、たとえばぼくが容認している体制や世界のなかであっても、ぼくの考えていないことを擁護することができるということだ。それは反対者の道理を認めてやることでもある。


カミュ『反抗の論理 カミュの手帖2』高畠正明訳(新潮文庫)


■■暮らし
□起床:12時半くらい
□昼食:レタスのサンドイッチ、シチュー(つくり置き)、アイスコーヒー(昨日いれたのを冷蔵庫で冷ましたもの。なかなかおつ)
□夕食:レタスのサンドイッチ、シチュー、ゆでたまご
□明日の起床予定:10時

Friday, April 29, 2011

まいけるぽらんに-る【動】頭では解っているんだが口にはできない状態になること

 『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい?』といふ問に対しては何人もたやすくその心理を説明することはできない。
 思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
 どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。

 私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。
 あの病気にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コツプに盛つた一杯の水が絶息するほど恐ろしいといふやうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。
 『どういふわけで水が恐ろしい?』『どういふ工合に水が恐ろしい?』これらの心理は、我々にとつては只々不思議千万のものといふの外はない。けれどもあの患者にとつてはそれが何よりも真実な事実なのである。そして此の場合に若しその患者自身が……何等かの必要に迫られて……この苦しい実感を傍人に向つて説明しようと試みるならば(それはずゐぶん有りさうに思はれることだ。もし傍人がこの病気について特殊の智識をもたなかつた場合には彼に対してどんな惨酷な悪戯が行はれないとも限らない。こんな場合を考へると私は戦慄せずには居られない。)患者自身はどんな手段をとるべきであらう。恐らくはどのやうな言葉の説明を以てしても、この奇異な感情を表現することはできないであらう。
 けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。


萩原朔太郎『月に吠える』序(岩波文庫)


■■感想
□マイケル・ポランニー
□ろごす
□「詩人としての才能」
□thought
□共有
□論理としての感情

■■生活
□前日就寝:3時ごろ
□起床:12時ごろ
□昼食:ざるうどん
□夕食:コーン抜きコーンシチュー(むらさきいも、たまねぎ、鶏胸肉、にんじん)
紫イモが入っているのでフルーチェみたいな不思議した色のシチューです。味はコンソメに近いクリームシチューで名実ともにコーンを失いました。不思議な色をめざして料理するのって面白そうです。

Monday, April 25, 2011

旅っていいのか

町でいちばんの

 旅行に出ると、行った先に居ついてしまいたくなる。以前はしばらく居ついてしまうこともあったが、今は係累がいるので無理だ。つまらないと思っていたが、今住んでいるのも旅先で居ついた町なのだと想像すればいいということに考え至ってから、愉快になった。
 今日はバスで二十分ほどの海に行ってきた。『町でいちばんの美女』を読みながらラジオを聞いている青年がいるので、眺め、ビールを一本飲む。帰りがけに海辺のとうふ屋でとうふを二丁買う。バスで、少しうとうとする。部屋に戻ってから持ち金の残りを計算する。この町も長くなった、次はどこに行こうかと考えながら、朝干したシャツをたたみ、もう一本ビールを飲む。やがて日が暮れる。



川上弘美「町でいちばんの」(新潮文庫『なんとなくな日々』所収)


 わたしは人の謙遜が好きなので川上弘美はわりと好きです。でもこの文章はこの人にしてはそんなに上手いわけじゃないけど昨日と関連するかなと思って目に留まったので引きました。じっくり検討しはじめるとキリがないのです。うお、わたしいま楽屋ネタしてるな、これは最近読み直した江口「ストップ!ひばりくん」の影響なのか。

 上手い謙遜っていうのは、「いえいえいえいえいえいえ私など無能なただのしがない雑文売りでして」と頭を低くする技術のよしあしではなくて、あ、川上さん、「カイジ」はマメにチェックしてるのね、微笑ましいな、という隙間をつくような具体性を宿らせる技術のことです。

Saturday, April 23, 2011

旅っていいよね

 私は旅行が好きである。全く違う文化や風土に、自分の価値観がゆさぶられるのは、とても刺激的だと思う。特に目的は作らずに、気分次第で進む先を変える。偶然に立ち寄る町の角っこでボンヤリとその土地の生活を眺めるだけでいいのだ。予定表と荷物ぎっちりの名所巡りなんて、無意味な疲労と記念写真が残るだけだ。
 かく言う私は旅以上に家が好きである。故にあまり外に出ないし、旅もしない。


冨樫義博『レベルE』第2巻作者まえがきより

これはやはりあの正方形に近いフォーマットで読むのが、そしてカバーに印刷されているのがいいのかもしれません。



■■生活
起床:10時
昼食:つくねおにぎり、ホイップデニッシュ、グレープフルーツジュース(セブンイレブン)
夕食:ラーメン(600円)、大ライス2杯(サービス)、人工着色料つきキュウリのつけもの(サービス)@日吉武蔵屋

Friday, April 22, 2011

真は真でしかない、ユニークかつ定義不可能であるとはフレーゲの考えだが

 ニーチェは、諸価値の転倒=転換を実行するためには、神を殺すだけでは充分でないということを、われわれに教えてくれた最初の人である。ニーチェの作品のなかで神の死を伝えるヴァリアントは多数にのぼり、少なくとも十四、五の異文があるけれども、それらはすべてきわめて美しいものである。ところがまさしくそれらの美しい断章のうちのあるものによれば、神の殺害者は「人間たちのなかでも最も醜い男」なのである。ニーチェの言わんとすることは、人間がある外的な権威を必要としなくなって、これまで受動的に禁じられていたものを自分自身で禁止し、自発的に警察力と重荷を背負うとき、つまりもはや外から来るとは思えない禁圧の力や重荷を自ら引き受けるとき、人間はさらにいっそう醜くなったということである。こうして哲学の歴史は、ソクラテス学派からヘーゲル主義者に至るまで、人間の長い服従の歴史であり、その服従を正当化するために人間が自分に与える数々の理由の歴史なのである。こういう退化の運動はなにも哲学のみに関わるのではなく、歴史の最も全般的な生成を、また最も根本的なカテゴリーを侵し、悪影響を及ぼしてきている。それは歴史における一つの事実というのではなくて、歴史の原理そのものであり、われわれの思想や生を、腐敗の症候として決定したさまざまな事件のほとんど大部分は、その原理に由来するのである。従って未来の哲学としての真の哲学は、永遠の哲学ではないのと同様に歴史的な哲学でもない。それは反時代的、つねに反時代的でなければならない。


ジル・ドゥルーズ/湯浅博雄訳『ニーチェ』(ちくま学芸文庫)


真の哲学は変わりゆくものなのだとしたら、「常に変わりゆく」「常に反時代的」という点では永遠になってしまいますよね、っていう揚げ足取りだ。クラス分けについてもう少し考えたいです。


■■生活
就寝:4時ごろ
起床:9時ごろ
朝食兼昼食:リーフレタスとベーコンのサンドイッチ
夕食:牛丼大盛り(350円)@すき屋
就寝予定:1時ごろ
起床予定:9時ごろ(11時に店開けないといけない)

Thursday, April 21, 2011

DZ

今日はプチ有名人のドゥルーズ講義に出席しました。ドゥルーズはDzと略すのが通です(たぶん)。

非常に話が上手い人だったが、話が上手な人には、構えてしまいます。
「上手い話には裏がある」みたいな、陰謀論ではなくて、練習/訓練/修行として有効なのか、と少し考えてしまうからです。すっげー単純化して言うならば、上手い話を聞くのってバカになっちゃうんじゃないの?と思うからです。頭の中によどみなく話が入っていくってことで、解ったような気になってしまうしまうし、それはそれで、本当に解ったのか解ったふりなのかどうかを判定する方法を僕はあまり持っていないのでどうでもいいんだが、それを置いても、僕の議論の作成から離れていくのではないのか、ということです。単純に二番煎じだしねえ。
初心者はまずは偉い人の面白い話を聞いてりゃいいんだよ!というのは反論もできなければする気もないです。

ちなみに、その構えというのが「構えて話をきく」というなんとも同語反復的というか幼稚な方法しか思いついていないというのが、僕の現状です。

そして、明日は今のところ、訓練としての効果を一番期待している(ゼミより高いとはどういうこっちゃ)、言語学の授業です。教室が8畳くらいしかないところで教授含めて四人の授業です。休めない。言語学の研究者だからといって自然言語の多数習得に長けていると思うなよ。これは、このブログでも引用したスーザン・ソンタグも言っていることですが、何かを追求しようと思ったら何かを好くだけでは不足でどこかで嫌わなくてはいけないのです。まあT氏は別に日本語を嫌っているわけではないと思いますが。

まずは手始めに、フレーゲの、thoughtと論理学についての文献を読んでいます。
論理学の守備範囲を心理学と分つ形で限った上で、さらに形容詞「true」や文などの範疇を狭めていく作戦はしたたかだなあ、というのが感想です。文献選択や誰に依拠するかの戦略よりも、論法そのものが剥き出しになっている感があって、僕の興味を引きます。これは、「他の問題に応用が利くぞ」という心ではなくて(それを下心とは呼ばないけど)、剥き出しになるのって特徴的に面白いなあ、という「純粋無垢な」心です。

ボードレールがフランス近代詩の出発点とされるのは、その中にロマン主義を超えた批評性が認められるからだ、のようなことをA教授(Mac使い)がおっしゃってました。その批評性のある部分のおかげで、現代でも解りやすく、共感しやすくなっているのでしょう。では、その話を援用して、論理学を批評的に見るとは、どういった営みになるのでしょうか。アンチ論理学を、論理学は体質的に受け入れることができません。その関係は、言うなれば「断絶」という、関係してません!という関係っていう矛盾したものとして表されるのでしょう。そういう意味では、他のあらゆる分野にも共通しながらそれでいて最も孤立した分野なのかもしれません。むしろ孤立してくれないと役に立たないのがロジックくんなのかもしれません。

現代、つまり僕自身にとって、見通しのよくなる見方は、どういったものなのか。見通しのよさと真理は時に相反する場合(たとえば単純化とか思い込みとかで正しくない推論をしてしまうのです、人間だもの)もありますが、相反さない部分を信用する以外に、道が見つからないのが僕の、近況です。

■■生活
前日就寝:20時ごろ
起床:12時ごろ
昼食:たまねぎごはん+味付け卵
夕食:同上+キムチ「約束のキムチ」
就寝予定:2時(現実的にな)

Monday, April 18, 2011

すしずめ

今日の3限、3分後にはほぼ満席(5席くらいしか残っていない)で、しかもレジュメは配り終わっていました。皮肉でなく、教育的配慮にあふれていました。ともだちの感想「あの人は人格者だ」他は人格破綻したような言い草です。


中学〜高校のホームルームより一回り小さい教室に、中学高校と同じく40人近い人間を詰め込もうとするとどうなるか。
小学生のときのように、隣の人と油断すると肘がぶつかるくらいの距離感、しかも体の大きい大人だ。熱気というものが捏造されそうです。第一印象としては不快なのだが、もしかしたらこれはこれで何らかの緊張感だとかそういう+となるものが発生しているのかもしれないと思うと、学事&講師の方々の判断もいっそう気になります。


不人気専攻の一つだったうちの専攻も、僕の期は15人の大台を越え、さらに新2年生は倍増くらいの感じです(実際の数は知らん)。不景気だから実学なんてやってもしょうがねえよな!のような世を嫌う風潮が出たのかどうか。


授業のあとは、フレーゲと格闘しました。金曜日に講義があるので、それまでに一回整理したものをあげようかと思います。


■■聞いた音楽■■
XTC "Black Sea" (1980, Virgin)
THE JESUS LIZARD "Down" (1994, touch and go)
THE BIRTHDAY PARTY "Prayers On Fire" (1981, 4AD)
いやーバースデイパーティいいですね、誕生日の当てつけとかそういうことではありません。祝ってくださった方たちどうもありがとうございました。


■■借りた本■■
熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波新書)
内山勝利:責任編集『哲学の歴史 古代I』(中央公論新社)
内山勝利/中川純男:編著『西洋哲学史 [古代・中世編] フロンティアの源流と伝統』(ミネルヴァ書房)


■■生活■■
前日就寝:2時ごろ
起床:10時30分ごろ
朝食:コーンフレーク(チョコレート味)、牛乳、コーヒー
昼食:レタスとベーコンのサンドイッチ、味つきゆで卵
夕食:豆腐チャンプルー(たまご/豆腐/新タマネギ/ベーコン)、ごはん3膳
就寝予定:12時ごろ予定
ひとこと:起床以外はモデルとしたい一日だった。

Saturday, April 16, 2011

松屋でも同じ事を思おうか

十二月×日
 朝、青梅街道の入口の飯屋へ行った。熱いお茶を呑んでいると、ドロドロに汚れた労働者が駆け込むように這入って来て、
「姉さん!十銭で何かくわしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ。」
大声で云って正直に立っている。すると、十五六の小娘が
「御飯に肉豆腐でいいですか。」と云った。
労働者は急にニコニコしてバンコへ腰をかけた。
大きな飯丼。葱と小間切れの肉豆腐。濁った味噌汁。これだけが十銭玉一つの栄養食だ。労働者は天真に大口あけて飯を頬ばっている。涙ぐましい風景だった。天井の壁には、一食十銭よりと書いてあるのに、十銭玉一つきりのこの労働者は、すなおに大声で念を押しているのだ。私は涙ぐましい気持ちだった。御飯の盛りが私のより多いような気がしたけれども、あれで足りるかしらとも思う。その労働者はいたって朗かだった。私の前には、御飯にごった煮にお新香が運ばれてきた。まことに貧しき山海の珍味である。合計十二銭を払って、のれんを出ると、どうもありがとうと女中さんが云ってくれる。お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつを交わして、十二銭なのだ。どんづまりの世界は、光明と紙一重で、ほんとに朗らかだと思う。だけど、あの四十近い労働者の事を思うと、これは又、十銭玉一ツで、失望、どんぞこ、墜落との紙一重ではないだろうか––––––。


林芙美子『放浪記』

Friday, April 15, 2011

もう一度読みます

明治憲法において「殆ど他の諸国の憲法には類例を見ない」大権中心主義(美濃部達吉の言葉)や皇室自律主義をとりながら、というよりも、まさにそれ故に、元老・重臣など超憲法的存在の媒介によらないでは国家意志が一元化されないような体制がつくられたことも、決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。「輔弼」とはつまるところ、統治の唯一の正当性の源泉である天皇の意志を推しはかると同時に天皇への助言を通じてその意思に具体的な異様を与えることにほかならない。さきにのべた無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。

丸山真男『日本の思想』

Wednesday, April 13, 2011

矛盾からはなんでも出てくる

前提1:結婚するとき、わたしは髪を切る。
前提2:わたしは遅かれ早かれ、絶対にいつか結婚する。
前提3:だが、わたしは決して髪を切ることはない。

結論:わたしは誰とでも望めば結婚ができる


ここに述べられていることが現実かどうかはわからない。それをさておいても、論理として、推論としても、これは一見、めちゃくちゃな推論に思える。
だが、これは論理学的に妥当な推論になる。
真理表を書けば見てわかるが、反例がない。つまり、「前提がすべて真でいて結論が偽である」という場合がただのひとつも存在しない。というのも、前提がすべて真になる場合があり得ないから。

当然、むむむ、とひっかかるのだが、そのひっかかりは、何なのか。

当面の、「何を勉強しているの?」ってきかれたときの一般用回答にしよう。

Tuesday, April 12, 2011

もっとも自明なこととはなにか

『知の欺瞞』
パラパラ読んでみました。
「知的詐欺」とでも訳せるタイトル。岩波書店〜訳者とのやりとりが気になります。
マイケル・サンデルなど政治系を抜くならば一番最近(つってもかなり前だなあ)の思想系ベストセラーになるのか。


科学というドグマから、科学の濫用をいさめるということには、問題を感じません。


比喩を否定はしないが、無意味かつ無根拠な比喩にどれだけの意味があるのか、という著者の論を全うしようとするならば、「どこまでいけば明らかな類似としてもよいのか」を恣意に任せておくのは、少しリスクを残すように思えました。批判相手たちは数学の理解そのものが矛盾しているのでその点で事なきを得ています。


★★読む本リスト
トルストイ『アンナ・カレーニナ』
アンケ・ベルナウ『処女の文化史』
林芙美子『放浪記』
廣松渉『今こそマルクスを読み返す』
松坂和夫『集合・位相入門』
プラトン『国家』
ロラン・バルト『明るい部屋』
スーザン・ソンタグ『写真論』
サイード『オリエンタリズム』

Friday, April 8, 2011

ひきこもりは現代の問題か

「それじゃどんな暮らしをなさってきたとおっしゃるの、もしも身の上話がないとすれば?」と彼女は笑いながらさえぎった。
「ぜんぜんそんなことなしにですよ!よくいわれるように、一人でひっそりと暮らしてきたんです、つまり、まったく一人ぼっちで–––一人、完全に一人きりで。わかりますか、一人きりというのがどんなことだか?」
「でも、どうして一人きりですの?するといままで誰にも会ったことがないとおっしゃるの?」
「いや、そうじゃありませんよ、会うことには会いましたがね、とにかくぼくは一人ぼっちなんです」


ドストエフスキー『白夜』(角川文庫、小沼文彦訳)

Thursday, April 7, 2011

メタ哲学の方法

 おお、なんじら高貴なるストアの人々よ、なんじらは「自然にしたがって」生きんと欲するのであるか?これはまた何たる言葉の欺瞞であろう!自然なるものを考えてみよ、–––それはかくも無際限に浪費し、無際限に冷淡に、意図もなく顧慮もなく、憐憫もなく正義もなく、凄惨に荒廃してかつ不定である!その無関心が同時に力になることを考えよ。いかにしてなんじらはこの無関心にしたがって生きることがありえよう?生きる–––これこそはまさに、この自然が存在するとは別のように存在したいという意欲ではないか?


ニーチェ『善悪の彼岸』、「哲学者の偏見について」

Wednesday, March 23, 2011

しばらく休みます

全国約15人(推定)の読者の皆様

こんにちは。
所用により、ネット環境を脱出しなくてはいけないので更新を休みます。
次回は、4月6日の予定です。
その日からはもりもり書きますのでどうぞよろしくお願いします。

Tuesday, March 22, 2011

絵心を理解する

実際のところは、絵が解るとか解らないとかいう言葉が、現代の心理学的表現なのである。見る者も絵が解ったり解らなかったりしているばかりでなく、画家も解ったり解らなかったりするような絵を努めて描いている。言わばお互に、絵はただ見るものだという事の忘れ合いをしている様なものだ。絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないかが問題だ。私も現代人であるから敢えて言うが、絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るものでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ。現代日本という文化国家は、文化を断じ乍ら、こういう寡黙な認識を全く侮蔑している。そしてそれに気附いていない。二科展の諸君は、この文化的侮蔑によって、実は上野の一角に追い詰められているのだが、それに気附いているのであろうか。肉眼と物体とを失ったヴィジョンは、絵ではない、文化談である。


小林秀雄「偶像崇拝」

Monday, March 21, 2011

ロリコンとはもう二度と呼ぶな

 さて今から、次のような理論を紹介したい。九歳から十四歳までの範囲で、その二倍も何倍も年上の魅せられた旅人に対してのみ、人間でなくニンフの(すなわち悪魔の)本性を現すような乙女が発生する。そしてこの選ばれた生物を、「ニンフェット」と呼ぶことを私は提案したいのである。
 ここでわたしが空間用語を時間用語で置き換えていることに、読者はお気づきになるだろう。実のところ、「九歳」や「十四歳」というのは嶋の境界線として思い浮かべていただきたい。鏡のような浅瀬と薔薇色の岩場がある魔法の島で、そこには我がニンフェットたちが棲息し、霧深い大海に囲まれている。その年齢の範囲内なら、どんな女の子でもニンフェットだろうか?もちろん、答えは否。そうでなければ、我々事情通、我々孤独な航海者、我々ニンフェット狂いは、とうの昔に気がおかしくなっているだろう。見目麗しさも判断基準にはならない。そして下品さというか、少なくとも社会がそう名付けるものも、ある種の不可思議な特徴を必ずしも損なうとは限らない。この世のものとは思えぬ優雅さ、つかみどころがなく、変幻自在で、魂を粉砕してしまうほどの邪悪な魅力、それこそが、たとえ年齢が同じでもニンフェットとそうでない者を分かつのであり、そうでない者は比較にならないほど一回限りの現象である空間世界に依存しているのに対して、ロリータとその同類たちは手で触れることのできない魅せられた時間の島で遊ぶのである。この同じ年齢範囲で、真のニンフェットの数は、目下のところ十人並みとか、単にいい子といか、「キュート」だったり、たとえ「かわいい」とか「魅力的」であろうが、ごく普通で、ぽっちゃりして、不恰好で、冷たい肌で、本質的には人間にすぎない少女たち、お腹がふっくらして、おさげが身で、大人になれば凄い美人になる者もいればそうでない者もいる(あの黒いストッキングに白い帽子姿のずんぐりむっくりした少女たちが、スクリーンの素敵なスターへと変身するのをご覧いただきたい)、そうした少女たちの数よりも圧倒的に少ない。女子生徒かガールスカウトの集合写真を渡されて、その中で誰がいちばん美人かと言われたら、正常な男性は必ずニンフェットを選ぶかというとそうともかぎらない。芸術家にして狂人、際限ないメランコリーの持ち主、下腹部には熱い毒が煮えたぎり、繊細な背骨にはとびきり淫猥な炎が永遠に燃えている(ああ、身をすくめて隠れていないと!)、そんな人間のみが、かすかに猫に似た頬骨の輪郭や、生毛のはえたすらりとした手足や、絶望と恥辱とやさしさの泪のせいでここに列挙することもかなわぬその他の指標といった、消しようのないしるしを手がかりにして、ただちに識別することができるのだ––––健全な子供たちの中に紛れ込んだ、命取りの悪魔を。彼女はみんなから悟られずに立っていて、自分が途方もない力を持っているとは夢にも思っていない。



ナボコフ『ロリータ』若島正:訳/新潮文庫
「ニンフェット狂い」が、正しく限定された呼称としたい。

Saturday, March 19, 2011

図書館と大学は避難場所として

今日は図書館なるところに行ってきました。
地域の図書館です。ビデオが3本まで借りられます。洋画は100本前後だと思うのだが、その中にコーエン兄弟「ファーゴ」、ジョン・ウォーターズ「シリアル・ママ」がありました。文学はともかくとして映像でこの手の作品が置かれるというのは、撲殺天使ドクロちゃんを公費で買うこととの辻褄合わせなのだと思えば、身震いもします。

いつもだったら、「月10万のカルチャーセンター」ともいえる私立大学文系学部に通う私は、大学の図書館を有効に活用します。しかし、緊急事態、来週まで臨時休館だそうです。
大学が社会とは独立した論理で動く逃げ場所(アジール)だとするならば、大学が来週まで図書館を開けないのは一体どういった理屈によるものなのでしょうか。それとも、とうの昔に、世の中に追随することに専念しているのでしょうか。あるいは、本の整理や安全確認など実務によるもなのでしょうか。

4月いっぱい休講を決めた某大学は、自らの位置づけを再びどこに置こうとしているのか。依拠するものは何かを示すことがあるのでしょうか。

Thursday, March 17, 2011

具体の科学

どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に支配されていると思い込む過ちを犯すとき、われわれは、野蛮人のほうも同じ批判をわれわれに向けていることや、また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方がわれわれの知識欲より均衡のとれたものだと思われていることに注意をしていない。



ユベールとモースの言うごとく、呪術的思考とは「因果律の主題による巨大な変奏曲」なのであって、それが科学と異なる点は、因果律についての無知ないしはその軽視ではなく、むしろ逆に、呪術的思考において因果性追求の欲求がより激しく強硬なことであって、科学の方からは、せいぜいそれを行きすぎとか性急と呼びうるにすぎないのではなかろうか?



(略)呪術と科学の第一の相違点はつぎのようなものになろう。すなわち、呪術が包括的かつ全面的な因果性を公準とするのに対し、科学の方は、まずいろいろなレベルを区別した上で、そのうちの若干に限ってのみ因果性のなにがしかの形式が成り立つことを認めるが、ほかに同じ形式が通用しないレベルもあるとするのである。しかしながら、さらに一歩考えを進めて、つぎのように考えることはできないだろうか?すなわち、呪術的思考や儀礼が厳格で緻密なのは、科学的現象の存在様式としての因果性の真実を無意識に把握していることのあらわれであり、したがって、因果性を認識しそれを尊重するより前に、包括的にそれに感づき、かつてそれを演技しているのではないだろうか?そうなれば、呪術の儀礼や信仰はそのまま、やがて生まれ来るべき科学に対する信頼の表現ということになるであろう。



だからといってわれわれは、呪術を科学の片言とする俗説(もっとも、それが位置する狭い展望の範囲では容認しうるものであるが)に戻るつもりはない。なぜならば、呪術を技術や科学の発達の一時期、一段階にしてしまうと、呪術的思考を理解する手段をすべて投擲することになるからである。呪術は本体に先立つ影のようなものであって、ある意味では本体と同様にすべてがととのい、実質はなくても、すぐあとにくる実物と同じほどに完成され、まとまったものである。呪術的思考は、まだ実現していない一つの全体の発端、冒頭、下書、ないし部分ではない。それ自体で諸要素をまとめた一つの体系を構成しており、したがって、科学という別の体系とは独立している。この両者が似ているのはただ形の類似だけであって、それによって呪術は科学の隠喩的表現とでも言うべきものになる。それゆえ、呪術と科学を対立させるのでなく、この両者を認識の二様式として並置するの方がよいだろう。それらは、理論的にも実際的にも成績については同等ではない(呪術もときには成功するので、その意味で科学を先取りしてはいるけれども、成績という点では科学が呪術より良い成績をあげることは事実であるから)。しかしながら、両者が前提とする知的操作の種類に関しては相違がない。知的操作の性質自体が異なるのではなくて、それが適用される現象のタイプに応じてかわるのである。


第一科学、呪術的思考、具体の科学
因果律への要望
器用仕事/もちあわせ/有限から無限


クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房

Wednesday, March 16, 2011

イマジン3

「キリング・フィールド」観ました。
音楽が非常に巧みな映画だと感じました。「どんなリアルな戦争映画でも、匂いだけは表現できない」とどこかで読んだ記憶がありますが、戦場にはフレームはなければ音楽も流れていないはずなのでリアルではないにしても臨場感を出す装置の一つとして、特にこの映画では音楽がよい効果をあげています。
不穏からの平穏への回帰が「イマジン」などポップス、オペラ、オーケストラなど西洋古典音階への回帰になっていたのは見逃せないポイントです。
ところで、ハラハラするシーンのあれは何というジャンルなんだろう。


政治情勢や描きかたの是非などはともかくとして、日本でこの手の「戦争の中の国境を越えた友情」系は作られないのには何かの圧力があるのだろうなあ、と想像しました。アメリカに先を越されるのは何かなあ、真珠湾攻撃とかもさ。少なくともアカデミー総なめにするくらいの傑作を、日米合作で完成させたときが、法律や経済だけでなく文化や情報の生活を生きるわたしたちにおける緊張の終結なのかもしれません。納得するエンディングがどのような形で存在するのでしょうか。


ウィキペディアによると、馬渕直城という、ポル=ポトの死にも立ち会ったという戦場カメラマンが、実際のシャンバーグ(アメリカ人記者)はディス・プロン(現地新聞記者、通訳や移動などシャンバーグをサポートする役回り)を人前で罵倒し突き飛ばす人間であった、という観察から「友情は無かった」と結論づけています。しかし、映画は、物語序盤「無理とか言うな。泣き言言うな。どうやったら現地に行けるかを考えろ。やれ」と無茶なことばかり言う我が儘横暴なアメリカ人記者像からスタートし、それが死線をくぐり抜け徐々によい関係になっていく過程やその後を描いています。本当にそんな友情が発生したかどうかは別として、かなりの時間を彼らと過ごしたとは思えない馬淵が知り得ない「いじわる白人のその先」を映画は描いているのであって、馬淵の批判はむしろ「見たことがある、くらいですべて知っていると思うのか。浅はかなやつだ」と反転します。


人間は経験を過剰に一般化しやすい。危険な体験を崇めやすい。
「見たこと以外は信じない」は別に結構だが、その裏に量化子ぶちこんだものも真、つまり「(少しでも)見たから(すべて)信じる」も正しいと思うのはお粗末なものです。

Tuesday, March 15, 2011

キャンプ=大衆文化時代のダンディズム

わたしはキャンプに強く惹かれ、またそれに劣らぬ程強く反撥を感じている。だからこそ、わたしはそれについて語りたいと思うのであり、また語ることができるのだ。なぜならば、ある感覚に心からとけ込んでいるようなひとには、それを分析することなどできないからだ。そういうひとには、意図はどうあれ、その感覚を見せびらかすことしかできない。ある感覚に名をつけ、その輪郭を描いたり歴史を辿ったりするには、反撥によって制約された深い共感が必要なのである。


趣味能力を甘く見ることは、つまり自己を甘く見ることである。なぜならば、趣味は人間の自由な–––つまり機械的でない–––反応のすべてを支配しているからだ。


「人間を善いのと悪いのに分けるなんて、馬鹿げています。人間は魅力があるか退屈かですよ」 『ウィンダミア卿夫人の扇』



スーザン・ソンタグ「キャンプについてのノート」/『反解釈』(竹内書店)所収

Monday, March 14, 2011

凄みを増すスパム

どんなチェーンメールが来たか、の話をしました。
いつもと変わらないはずの、逆援助ってなんておいしいんだ!風俗や出会いに金を出すなんてばからしい!出会い系スパムにすら、節電を求める前文がついていたそうです。逆援で今月70万稼いでます、単位がジンバブエドルのようにスーパーインフレ起こしていないはずの円であるのならば寄付しろ、と言いたいところです。とか言っていたら「逆援で稼いで募金しよう!」とかいう気の利いたスパムも開発されそうです。募金に貴賤は無いか。

文は、それ単体では読み得ない、コンテクストと読み併せているのだ、といいます。いつもと変わらぬ文面のスパムですら、未曾有の危機はやや強い文脈を与えます。

以下、実際にさっき(3/15午前1時18分)届いたメールから引用です。URLは省略しています。


タイトル:「神」探してます!
泊めてくれたらエッチ
くらいいいよ♪
マリコ
漫喫に泊まるお金も無
いよぉ。。。
メグ
書き込み
○すべてが無料○
だからゆっくり写メを
見ながら好みの子を探
せます。

「とりあえず晩御飯
おごるよ」

これで大抵の神待ち少
女は会えます!
あとはお持ち帰りも
どこかに泊まるのも
カンタン!

引用以上

Sunday, March 13, 2011

イマジン2

(略)想像力という言葉はつねに様ざまな、決して不確かとしりぞけることのできぬ、しかし結局は想像力の核心を射ていない疑いの声をひきおこす。想像力?それは現実の科学的な認識とは別の、それに加えての、ある人間の精神の働らきなのだ、という受けいれかたも、とくに想像力について好意的な科学者に見出されることがある。科学的な認識、それは肝要だ、しかしそれのみではならぬ、想像力がそこに上のせされなければならぬ、というふうに。
そのような想像力について寛大な受けいれかたをするタイプの科学者が、すべて実は想像力について本気で考えていないのだ、とはいうことができない。しかししばしば、このようなタイプの考え方の持主たちにおいては、想像力に対して大きい自由をあたえる者らほど、より多く想像力を本気で相手にしてはいない。子供の無邪気な遊びに寛大であればあるほど、実際には、その子供のやることを本気で問題にはしていない、という場合がしばしばであるように……
しかし想像力は、じつはストイックなほどにも現実の内奥に根をおろし、現実に縛られ、また究極において現実にむかうものでなければならぬである。科学的な認識ということにつきつけていえば、想像力はそのうちにくいこんでいなければならぬし、想像力的な現実認識の展開は、つねに科学的な認識によって裏打ちされつづけなければならないのである。


(略)想像力とは、そのように現実の状況とあい関わる(状況に根ざし、状況をこえる)人間の精神の機能である。


(略)状況の外にあってそこから状況にむかってなにごとかを語る、ということではなかった。この核時代にあって誰が状況の外にいることができるだろう。それでは、なぜ状況によって骨がらみにされながら、あるいは状況のぬかるみに膝まで没しながらしかも状況の遠い展望に目を向けることもできぬものが、状況へ、というのか?
そのようにいう僕にとって根本的な梯子の役割をはたしているのが想像力の機能に他ならない。われわれは状況のなかに行きている。しかもその状況の中心に一箇の人間である自分を於いて、あらたに状況をひきうける。主体的に状況をとらえなおす。その行為の動力源となるものこそが、想像力にほかならない。想像力によって状況を把握する態度そのものを、僕は状況への真の人間のありかたとみなすのである。そのようにして、あらためて一箇の人間としてどう生きるのかという意志を決定することを、状況への唯一の対処のしかたとみなすのである。



大江健三郎「想像力的日本人」より、断片的に引用。段落途中のみ引用した場合は(略)とつけた。(『状況へ』所収)

ピチカート・ファイブ

この、敢えて言えば「必要以上の熱狂」の出所ははっきりしています。ピチカートVの音楽は、現在では数えきれないほどのリリース量に達していますが、総ての曲に終始一貫したテーゼがあります。それは「どうせ世間は酷いニュースばかりなんだ。外は地獄だし地球もいつかは滅ぶかもしれない。だから、音楽が鳴っている間だけは最高にラヴリーでグルーヴィーに踊ろうよ」っていう、まるで60年代のグループサウンズの歌詞みたいな、しかしカントよりも堅牢な鋼鉄の哲学なのです。
この刹那的でディスコティックな美学、そして衣装の陶酔、そして甲高い意地悪な皮肉。この3点の融合に於いて、僕は、ピチカートVこそが、日本にほぼ唯一存在するゲイ・ミュージックだと思っています(小西さん自身はゲイではないと思います。それとこれとは関係ないのです)。ゲイ・ミュージック。中でもハウス・ミュージックは、被差別者による快楽の闘争という意味に於いてブルーズの子孫であり、肌の色による人種差別と違い、外的には峻別できない差異による、いわば「自己申告によって能動的にキャッチした被差別」という意味に於いて、20世紀ブルーズの最後の一形式なのかも知れません。


菊地成孔『スペインの宇宙食』より、「鰻のマトロット(香草と赤ワインでぶつ切りの鰻を煮込んだもの)」から抜粋

Friday, March 11, 2011

ねじ回しとスプーン

ねじを壁にねじこむのにスプーンを使うことは可能である。訓練によって、あなたはそれに熟練することもできるだろう。そして、また、スプーンを使った曲芸めいた芸当を習得することも可能である。さらに、スプーンの曲芸をしないひとたちを感動させたり、当惑させたりすることも可能である。そして、スプーンを「フォーク」と呼ぶことによって、すべてをより謎めいたものに仕立てることも可能であろう。で、このことに関する本を著し、フォークと呼ばれるスプーン曲芸をする他の人々を募って協会を設立することも可能である。そして、たとえその後であっても、そう、確かに、あなたはスプーンで壁にねじをねじこむことができるのである。
しかし、ねじ回しのほうがより良い。たとえ、いままでねじ回しを見たことがないとしても、それに似たようなものを発明することは可能であろう。ひとつの用途のスプーンが他の用途のスプーンとは同じでないにしても、おそらく似通ってくるのは確かである。それで、あなたは自分のスプーンをもつことができるようになるだろう。スープを飲むのに、曲芸をするために、そして、たまに、ねじを壁にねじ込むために。少なくとも、あなたがたよりよい道具をより上手に使いこなすまでは。


アルベルト・A・マルティネス『負の数学』青土社より

Thursday, March 10, 2011

カタカナ

坂口安吾を一日およそ一編ずつ読んでいます。
岩波、ちくま、新潮と色々なところから出ているので全体的に「白痴」過剰です(かぶってる)。


そこで、時々使われる、ほんの少しずれるカタカナが安吾の文章のいいフックとなっているのでは、と考えました。
エッちゃん、それだけはイヤ、ヒメ、など、逐一分析するのは面倒なので、高校3年時の担任(古典)の「いい響きですね」的省略で乗り切らせていただきます。読み始めは単なる「夜長姫」の短縮形であり狂っていない一般に想像するところの「姫」を指す「ヒメ」が、終盤には、青空のように規範を外れた人として「姫」を越すのです。そういう意味では、フックと言ったけれども、「あとで足に効く」ボディブロウの側面もあります。安吾はつくづくうまいなあ、と思います。


カタカナ以外に、時々、ローマ字を交える人もいますよね。今、パッとexampleが出せなくてもどかしいのですが、この文章のような感じです。LAやNYは百歩譲って、いちいち外国地名を現地文字で書いちゃうのもそうかな。
これはフックになるのか。
そもそもカタカナ問題と重なる部分があるのか。
多くの場合、わざわざアルファベットにする機能が認められないこと、そしてHJ(肥大した自意識)、さらにはそのHJにも気づかない鈍さ、が垣間みられ、ほんの少しの嫌悪を覚えます。

Monday, February 28, 2011

貸し画廊で三点倒立

現在、わかっているだけで読者は2名です。うち1名は書いている中の人です。

貸しギャラリーの展示で、暇な学生どものすることですから、だらだらだらと30分で終わることを3時間ほどかけて行いました。交流という名目がありました。なんであんなに「ダーツバー行こうぜ!」ということを大きな声で言わなくてはいけないのか、だけはわかりませんでした。

「三点倒立」というプロジェクトが進行中です。東京の至る所で三点倒立をする、それだけです。そのため、ギャラリーの中の、ほどよく空いたスペース(もちろん、万が一倒れても何も当たらないところ)でやってみました。携帯電話がポケットから落ちた他は、三点倒立としては成功といってもよいでしょう。
しかし、天の網は疎にして漏らさずというやつでしょうか、管理人らしき初老の枯れ系ファッションのおじさんが現れ、「ここは展示スペースです。学校ではない。わかるでしょ?」と、諭されました。

私は悪餓鬼のように(自分勝手に話をすすめるほど)しなやかので、「わかりません。」と正対して語尾までしっかりはっきり大きな声で言うつもりでした。しかし、私は、怒られることに慣れていないためか、すっかり萎縮してしまって、はい、ごめんなさい、と力なく相手の目も見ずに答えるばかりでした。

逆立ちをすることが大枠から見て、ふざけた行いであることは分かっているし、幾分、私もその少しの悪行であるところを悪用していたことは、認めざるを得ません。なんでもかんでもアートだと言ってしまうおぞましいクリシェでもあるしそれを避けた振りをした冗談でもありました。
ですが、素人相手に金を巻き上げている貸しスペースというそれ自体がふざけた場所で、その中でさらに規範があることは、滑稽でしょうがなく、私は、その中から一刻も早く出なくてはいけない、と思いました。

Sunday, February 20, 2011

ブログ開設解説

こんばんは。
まずは、はじめてみました。
ちなみに、まだこのブログの存在を知っているのは僕と実母だけなので、これは、まさに、実家の壁に向かって独り言を適度な大きさでぶつぶつしているのに、似ています。

目下、最大の悩みは、このブログをどの程度広めるか、ということです。
1日5hitなのに荒らされることもある恐怖のネットの世界です。いつになく慎重です。